1966年のことである。そのころ毎年輸出の仕事で出歩いて居り、この時も7月に日本を出てエジプトに短期間居てから南アフリカに廻っていた。そうした仕事の話はさて置いて、此処では各地を一人旅での体験をご紹介します。
南アフリカは未だアパルトヘイトの時代で、マンデラ大統領になるのはなおこの28年先である。ヨハネスブルグを中心に居たが、Europeans Onlyと書かれた席に微妙な抵抗感で過していた。ただ治安は今よりずっと良かった様だ。当地の7、8月は冬だがヨハネスブルグは南緯25度位、高原の快適な気候であった。そうした中で豪州でのプロジェクトに急ぎシドニーに廻れとの指示を受けた。
当時も南アフリカ、豪州共にヨーロッパとの間には多くの航空便が有り、一旦ロンドンに行って乗り継げば毎日発つ事も可能だが時間も費用も掛かる。一方南アと豪州間は、南ア航空とカンタス航空が週に各一往復就航しているだけで常に満席であった。しかしキャンセル待ちを掛けて居たら、南ア航空に空席が出て急遽インド洋を飛ぶ旅に出た。本来はカンタス便が希望で、それは同じ便がシドニーまで行って呉れるが南ア便は西海岸のパースで打ち止め、何と12時間待ちで翌日未明にロンドンから来る便に乗り継ぐ。しかし乗れるだけでも良しと思った。
8月5日朝9時ヨハネスブルグ発の南ア航空ダグラスDC7B機に搭乗。以前JALが北米線に使用していたのと同形と思う。案の定満席で豪州に稼ぎに行くのが多い為か機内持ち込み荷物の大きいのに閉口、窓際席で景色が見れると喜んだもののトイレに行くのに苦労した。プロペラ機での長距離旅行は久し振りで、レシプロエンジンの爆音もしっかりとゆっくり堂々と飛ぶ。
ヨハネスブルグから次の寄港地のモーリシャス島まで6時間半、モザンピークを横切りインド洋に出ると間もなくマダガスカル島に差しかかる。この島の大きいこと本当に大陸かと見間違う。これを過ぎて再びインド洋に出て夕暮れ近い17時半モーリシャスのポートルイスに着いた。インド洋に浮かぶ小さな島との先入観は地図からの誤解で東京都に近い面積があり、海に近い飛行場に吹く風は湿潤な南の島の気候であった。
(写真1 ポートルイス空港のDC7B)
空港の待合ロビーに出て待つ。入国手続きをした記憶は無く、搭乗カードに飲み物券位で出たのかと思うが定かで無い。アナウンスは英、仏語でフランスの植民地かと思ったが、実は17世紀に和蘭が支配して見切りをつけ、18世紀に仏領となり砂糖きび産業が確立すると、これを見ていた英国がナポレオン戦争に付込み占領して1814年統治領とし、1968年英連邦の中で独立している。この小さな島にもしたたかな欧州の歴史が重なっている様だ。
ホールにはインド人、有色の人、白人と様々な人が居たが、その中に私がゲートから出た時からこちらを見ている東洋風の男に気付いた。視線が合って近づいて来て日本人かと挨拶を交わし、良かったらと言われバーのカウンターに並んだ。ほぼ同年輩のトヨタの営業マンであった。私が電機メーカーの人間でこれから豪州へ向かうと判るとほっとした感じで、私を何と思ったのかと聞くとニッサンかとの答えに双方が笑った。お互い名刺を出して名乗る事はしなかったが、気楽な雰囲気で一緒にビールを注文し暫し異郷での会話となった。 彼はモザンピークのロレンソ・マルケス(今のマプート)に単身で居て、アフリカ東海岸と近隣の島を廻って販路開拓をしていて今回モーリシャスに来た処だと。どこも欧州勢ががっちりと販路を押さえていて本当に売るのが大変だと言っていた。私もアフリカで廻った各所の設備は、みなAEGやSiemensなど欧州メーカで固められていて中々入れない事は同じであった。 余り仕事の話に立ち入る事はしなくて、アフリカでの暮らしや各地の旅で見た事を話し合った。 やがて私の便が出る時刻になり、双方ビジネスの幸運を祈りあって別れた。
この便はポートルイスを18時半発、インド洋上を北東に10時間飛び続け、翌朝6時過ぎココス諸島に着く。ここはジャワ島の西1000Kmのインド洋に浮かぶ孤島で飛行場と椰子以外は何も無い。民間機は私達の便だけで、あとは哨戒機が発着して居た。南緯12度の太陽は朝からぎらぎらして真夏の島であった。
(写真2 ココス島の玄関)
2時間の休憩に滑走路横の建物に案内され、洗顔のあと食堂でフルの英国風朝食が出された。あと出発まで適宜にして良いとで海岸と椰子の林を散歩した。到着後の手続きなどした覚えはないが、この小さな島では逃げたければどうぞと言う処だろう。歩いて驚いたのが椰子の実が至るところ落ちているのと、大きなバッタが飛び跳ねている。恐らく天敵が居ない島でこんなに進化したものか、それならマダガスカル辺りから小さな猿を連れて来たら、これを食べて大きく成るかも知れないと勝手に想像した。
ココス島の歴史は1826,7年に英国人HARE,ROSSのニ家族が入植してココ椰子を栽培してから始まる。島での権力闘争はROSS一族の勝利となり、以後百年以上この一家による支配が続く。この太平が破れたのは第一次大戦でこの近海が欧州に向かうインド洋の交通の要所となり、それを狙ったドイツの巡洋艦隊が船の拿捕を重ねた事による。20世紀後半になると、航空機の給油や海底電線基地の設置もあり更に軍事的重要性が高まり、1978年に豪政府がROSS家から625万豪ドルで半ば強制的に買収した。しかし椰子以外何も無い無人島に来て1世紀半も頑張った持主一族の根性には敬服する。
(写真3 島の海辺と椰子)
インド洋最後のフライトはココス島を朝8時過ぎに発って、機首をぐっと南に向けて6時間かけて陽も西に傾いた8月6日16時近く、漸く豪州西海岸のパースに到着した。南アフリカから時差6時間、実飛行22時間のお疲れ様であった。南緯33度の町では夕暮れの風は冷えていた。
これから後は乗り継ぎ便でシドニーへと直ぐにならないのがこの旅である。この後に一波乱あったが、今回はインド洋が終った処で区切りとさせて貰います。
編集長の付け足し
小生のコメントに応えて、旅の経路の入ったインド洋の地図を小林君が送ってくれましたので追加します。
パースから先の一波乱についても是非続編で紹介して下さい。
海外出張の途中で急に、「別な所に回れ」と云われた事は何度かある。甚だしいのはシンガポールの港湾局の時であった。一週間ほど炎天下のコンテナー・ヤードに出た後、やれやれ日本に帰れると思ったところに「帰りにロンドンに寄ってくれ」と指示が来た。小泉純一郎ではないが「呆れるよりも笑ってしまった」
小林兄は昔の記憶や記録を、良く残していると感心する。小生はこの時どう云う風に行ったのか全く覚えていない。とにかく眠かった。到着後に又一昼夜近く寝てから、事務所に出頭した。所長が「アレッ?」というような顔をした。「だいぶ前に通知があったので、もう来られているものと思っていた」と云われてしまった。