2009年08月24日

中橋信弘君の思い出/吉田 進

クラスブログ1955の初期には、すでに亡くなった旧友への追悼文が何件か寄せられていた。それらを読む度に、小生としても比較的付き合いの多かった中橋君のことが気になっていた。中橋君は2003年7月18日に亡くなられ、七回忌が過ぎた現在、何か思い出を書いて追悼の意を表したいと思った。同年の年末に奥様から忌中のお手紙を頂いて始めて逝去を知り、愕然としたことを思い出す。本人の遺志でご葬儀等は身内のみで行われたとのことで、彼の控えめな性格が偲ばれた。

卒業時に中橋君は富士通に、私は古河電工に就職し、企業系列が同じだったことも何かの縁のように思える。富士通時代に独身寮近くの多摩川花火を見に来ないかと誘いがあり、花火を見ながら河原で互いの近況を語ったことがあった。彼は会社から与えられた開発テーマが社としてはかなり後発で、進め方の悩みを語っていた。詳しい理由は知らないが、中橋君はその後(旧)郵政省電波研に転職した。彼が腎臓の病気で透析を続けていたこと、1995年にアメリカで移植手術を受け経過は良好なことは聞いていた。1997年にはマドリッドから、2000年にはショパンコンクールを聞きに行ったワルシャワから葉書を貰い、旅行を楽しむほどに快復したことを何よりと喜んだ。

その後、たまたまチケットが余ったので、朝比奈隆指揮の新日フィル演奏会に誘ったことがあった。高齢な指揮者が正面から見える席で、その元気な姿に二人で感嘆したことを思い出す。また、千葉へ時々ドライブし、虫取りに興じているというような便りもあった。それだけに奥様からの訃報には信じられない思いだった。卒業45年会が最後に会えた機会になってしまった。

学生時代には彼の穏やかな性格から親しみを覚え、付き合いが多くなった気がするが、五月祭のテーマを一緒に計画実行したことを思い出す。お互いの結婚式には招きあう仲になっていたので、彼の挙式の折に奥様と知り合った。そのためか、亡くなった1年後の2004年7月の一周忌に、奥様から中橋君を偲ぶ会へのお招きがあり、学生時代や仕事の関係で交遊のあった方々とともに、小生も出席した。ご親族を始め中学・高校時代の友人達、電波研時代の関係者の方々など、20〜30人が出席されていた。昼食を頂きながら一人ずつ思い出を語ったが、友人たちが彼に懐く厚い友情と尊敬、また電波研での計画、実験などを進める際に、困難な仕事に率先して真摯に取組んでいた様子を聞き、知らなかった彼の面に触れることができた。高校時代の友人達が編集した中橋君を偲ぶ小冊子を頂いたが、彼の死を惜しむ気持ちがあふれていた。

今でも時折中橋君のことを思い出すが、七回忌を過ぎた今、改めてしみじみと彼の冥福を祈る気持ちに浸っている。
posted by でんきけい at 01:17| Comment(1) | 吉田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
中橋さんと私は学生時代に黒部発電所見学の時、小諸や長野を共に訪れた。比叡山で共に写った写真もある(ブログの「1953年の夏」Part 1,2)。中橋さんは「静かなる男」であったが、しっかり自分の意見を言うし、話も結構面白かった。
彼は富士通に入社したが、担当部門は知らなかった。入社後2年目の頃、NTTの要請で、伝送装置のインターフェースを富士通とNECで統一することになった。折衝のため、私は南武線で2駅しか離れていない富士通の中原事業所を2,3回訪れた。担当部門が異なっていたので、中橋さんには会うことが無く、残念でもあったが、内心ほっともした。
その後、電波研に移られたと聞いていたが、吉田さんの「中橋信弘君の思い出」で、中橋さんの人柄や仕事の様子がよく分かりました。心から中橋さんのご冥福をお祈りします。
Posted by 大橋康隆 at 2009年08月24日 18:13
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