2010年07月11日

開港時の横浜/井村 英一

 幕末に締結された日米修好通商条約により、1859年に横浜が開港された。それにより、88軒しか無かった一寒村が日本での文明開化の発祥の地となった。そして僅かのうちに日本一の貿易港になった。

 横浜市あるく会で、JR桜木町駅から関内駅まで横浜開港当時の歴史を尋ねながら歩いた。ここには、至る所に日本初めての文明開化の記念碑があった。1872年(明治5年)に横浜―新橋間に日本初の鉄道が開通した。当時の横浜駅は今の桜木町駅の辺りだった。明治3年にはガス会社が設立され、馬車道などにガス灯がともった。関内駅近くの吉田橋は、開港直後にかけられ、外国人保護・取締のため関門が設けられた。関門を境に海側が関内と呼ばれた。銀杏並木の日本大通りは慶応2年の大火事がきっかけで、居留地の外国人の都市計画の要望により、この近代的道路が生まれた。また公園を欲しがる外国人の要求で、明治9年に日本初の洋式公園が設置された。今の横浜公園である。また公園内の横浜スタジアムは、明治29年に旧制一高と外国のアマチームとの日米親善試合が行なわれた日本野球発祥の地に建てられている。その他、アイスクリーム、外国郵便、電話交換、西洋理髪、等等の発祥の記念碑があった。

 開港時の俳句は、文献にも見当たらない。それで、フランス山に港に向いて建てられている大野林火の句碑を記して、この稿を終える。
   白き巨船 来たれり春も 遠からず
posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 井村レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大野林火の句は良いですね。小生が物心ついて初めて日本の土を踏んだのは、横浜の大桟橋です。昭和14年の4月上旬に、父の急な転勤で上海から船で帰国しました。
横浜の平沼小学校に出頭したのは始業式の次の日で、転校生扱いになってしまいました。一度も行く事がなかった上海の小学校の入学手続きは終えていたので、新入学とは認められなかったようです。
教壇に立たされて先生から「早速転校生のお友達が来ました」みたいな紹介をされ、みんながポカンとした顔で小生のほうを見つめていたのを、ぼんやりと覚えています。

Posted by 寺山進 at 2010年07月13日 10:41
35年卒の後輩です。横浜は本当に魅力的な町ですね。私は大学入学までの10年間を井伊直弼の墓のすぐ前で育ったこと、その前後30年ほど横浜に住んでいることなど、横浜には縁があるものですが、たまたま最近「横浜をつくった男」(光文社文庫)を読み、たった一人の男が、居留地の外人の居館から始まって鉄道、ガス、はては遊郭まで手掛けたことに、とりわけそれまでは単なる易者としか思っていなかった高島嘉右衛門がその人であることに驚いた次第です。
Posted by 山崎浩 at 2010年09月24日 11:40
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