2012年01月21日

オリンピックの辰年(その2)/寺山 進

 今回はモントリオ−ル・オリンピック、1976年の丙辰である。白い妖精・ナディア・コマネチが満点の演技で世界中を魅了した。日本女子バレーの金メダル奪回も特筆に値する。国内では田中角栄元首相の逮捕が衝撃的だった。

 この前年、小生は二十年に亘る地方の工場勤務を終えて本社転勤になった。小金井市に中古の家を買って引越したのがこの年の三月である。直近の十二年間は日本経済の高度成長全盛期であった。その1は「自動車が米国に進出する遥か以前の話」であったが、早くもこの頃関係者の間では、日米の自動車産業の行方が見えていたようである。トヨタの人との雑談の途中で「もう勝負にならない」というような意味の事を云われたので「そんなに大変なのか」と聞き返したら「いや逆です、日本の圧勝です」と笑われた。田舎に長く暮らして、最新の世情に疎くなっていた。貿易摩擦が最大の日米外交問題になるのは、この後すぐの事である。

 部長とか事業部長とか会社での地位が上がるにつれ、営業の仕事、従って国内外を問わず外部の人とのお付き合いが増えて来た。お役所や民間会社など顧客相手も多かったが、コンピュ−タのIBMなど自分が購入側のこともあった。
 逆の立場になると改めて気付かされることも多い。IBMの営業戦略の優秀さは広く知られていた。しかし優劣と云うよりも、寧ろ根本的に日本の会社とは何かが違っていた。最近になって佐藤優氏の著書で知ったような、インテリジェンスつまり諜報機関の手口を連想させるようなものがあった。
 以下は小生の憶測であるが、例えば組織や人事異動を報せる社内通達などの公開情報を重要視する。勿論その上に裏情報のヒュミントを加えて分析する。こうして顧客社内のインフォ−マルな権力構造や意思決定過程を推定した上で、キ−マンを絞り込むのである。もう少し後の事になるが、小生が全社の情報システム部門の責任者になった時、同社の営業活動の的確さに仰天させられる経験もした。汎用機における一人勝ちは、通称「伊豆研修ホテル」での接待だけで齎されるものではない。コンピュ−タ市場の揺籃期から、同社の営業更には事業経営の根本には「計算機ではない。情報処理システムだ」という、確固たる信念と見通しがあった。

 一人で海外出張の機会も随分増えた。2010年1月1日に森山兄が、“Queen`s English in Paris”という楽しい一人旅の投稿をされた。これに対し小生がコメント欄に「Grey Houndの夜行バスでの心細かった話」を載せ「腹が立ったのは中近東諸国だが次の機会に」と書き加えた。すかさず大曲編集長から「投稿の方に是非よろしく」と云われたが、そのままになっている。そこで今回、この宿題を済ませておきたいと思う。
 1980年頃中東の某国に降り立った所、入国審査場がアジア系の若い人で溢れかえっていた。はるか彼方に審査官が見えるが、どうすれば良いのか戸惑った。まだ子供のような女の子達が不安そうな顔で並んでいる。スリランカから来たという、このグル−プの引率者に聞いて見た。「もう何時間も待っているが、どうなるのか分からない」と云う。
 強引に前の方に割り込み、パスポ−トを振りかざして、審査官に「どのゲ−トか」と叫んでみた。国籍を聞いて来たので「Japan!」と郷ひろみ流に怒鳴ったところ、手招きの上「O.K.」と即座に通してくれた。
 この事自体は腹の立つ事でもなく、祖国日本の国力要は経済力に感謝したい位である。しかし腹の立ったのは、同じアジア出身の若い人がいわば奴隷労働を強いられている事であった。炎天下の戸外では男が建設作業、屋内では女が女中仕事、本国人はそこに生まれたというだけで左うちわ、何にも仕事はしない。戦前の日本の植民地よりも非道い。小生は旧満州生まれなので、かすかに覚えている。少なくとも日本人も良く働いていた。

 この時の出張は余り受注の望みが無さそうだったので、商談相手の米国人コンサルタントとの雑談で時間をつぶした。彼らも金で雇われているだけで、幹部つまり王様一族が実際の権限を持っている。Harvardとかを卒業している自分達より、どう見ても遥かに知能指数の低い連中に仕えている訳である。当然の事ながら、かなりストレスを溜めているようだった。「石油はアラ−の神の贈り物だとかいって大きな顔をしているが、あいつ等だけだったら役にも立たぬ黒い水に過ぎない。君達先進国が築いた技術文明のおかげだろう」と云ってやったら大喜びしてくれた。

 1960年ころTiffanyのN.Y.本店に入って見ようとしたが、一寸気後れがしてやめた事がある。入り口の両側に派手な衣装のドア・マンが二人立っていた。まさかそんな事は無かったのだろうが「お前の来る所ではない」とでも言われて頭に来るのも厭だ。その後も出張中では中々機会が得られなかったが、1976年の秋に始めて入店した。この頃には日本女性も何人か店内で見かけるようになっていた。桜田淳子さんの「来て来て、来て来て、サンタモニカ」という歌が大ヒットしたのはこの二三年後だが、米国旅行が憧れから現実のものに成りつつあったのである。
 国が経済大国になろうとしていても、一般庶民の生活はまだまだ楽ではなかった。通勤電車に冷房が入るのは次の辰年までの間である。サラリ−・マンだけではなく日本人は皆文字通り汗みどろで働いていたのであるが、2012年の現在ではこのころ貯めた財産をもう食いつぶしかけている。

 次は1988年戊辰のソウル・オリンピックである。「オリンピックの辰年―その3」として引き続き投稿したい。

 参考文献= 佐藤優: 「獄中記」岩波書店、 「国家の罠」新潮社、 「交渉術」「私のマルクス」文芸春秋社。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(5) | 寺山レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
オリンピックの辰年を大変面白く読ませて頂いております。
今回の1976年の辰年は私にとってはオリンピックではなくアメリカの独立二百年祭を思い出させてくれた。当時、アメリカ独立のゆかりの深いフィラデルフィア郊外に住んでいたので、珍しい経験をさせて貰った。
この年独立戦争でワシントンの率いる独立軍が苦戦したヴァレーフォージ公園では7月4日独立記念日の朝フォード大統領が来てお祝いのスピーチをし、この公園を国立公園にする書面にサインした。また、全国5地方から大陸を横断して幌馬車隊が全部で60台の幌馬車をつらね独立記念日の前日にこの公園に集まり、交歓会を開催した。そのほか、高さ15m、直径12mの大誕生ケーキの展示があった。さらに、アメリカ発展200年の歴史を運ぶ博物館として「フリードム・トレイン」という名称で全国48州を巡る蒸気機関車に牽かれる25両の列車の催しもあり、近所に来た時に見学した。独立200年のお祝いとして各国から記念となるプレゼントをしたが、日本からのプレゼントはワシントンDCにある総合劇場ケネディーセンターに設ける小劇場と桜の苗木の寄贈およびフィラデルフィア・フェアマウント公園にある書院造りの日本建築「松風荘」の修復の3つであった。この日本建築の襖絵は東山魁夷氏が描いたものであったが、汚れがひどくなり、5年前、千住博氏の描いた滝の襖絵に取り換えられた。
1976年の辰年に関連して私の経験したアメリカ独立二百年祭の催しの一部を紹介致しました。
Posted by 沢辺栄一 at 2012年01月21日 14:11
寺山兄へ
2年余り前の小生のリクエストにちゃんと反応して頂き、有り難うございました。ブランクの期間も長かったので、当然“忘却の彼方へ”かなと思っていました。

沢辺兄へ
当時の記録を調べてみたら、小生は1976/6/12-24と1976/7/10-18にGE Valley Forge Space Centerに出張していましたが、独立記念日はちょうどその谷間にあたり、惜しい所で歴史的イベントを見るチャンスを逸したようです。
Posted by 大曲 恒雄 at 2012年01月21日 18:53
寺山兄に申し訳ないが、モントリオール・オリンピックにつてはコマネチ選手以外は殆ど記憶がありません。それは、1975年〜1980年に亘りラインから外され、臥薪嘗胆の時代でした。やるべき仕事を書面に5つ程書いてもらいましたが、実際に実行したのは電源問題の解決と光通信の開発でした。電源の重要性は、原発事故で再認識されたと思いますが、当時は技術者不足で、子会社や関連会社に丸投げでした。問題が発生しても、得意先に説明できる技術者はいませんでした。周囲の大反対を押し切って、デバイス部に電源課を作り、一部の電源を内製化して、技術力の回復をしました。
寺山兄は1980年頃、中近東の某国を訪れたようですが、小生も待望の光ケーブル通信開発本部を立ち上げた頃でした。サウジアラビアの A 石油会社からも受注したので、寺山兄の話は良く解ります。主要な技術者は米国人で交渉は順調に進みました。しかし、現地工事では苦労しました。当時は、フィリッピン、マレーシア、イランに工場を持っていたので、そこから工事の人達を送り込みました。禁酒国で密造がばれて入獄したり、英語の「STOP」が読めずトラクターが突っ込こんだりしました。しかし、電線は切断されたが、光ケーブルは切れなかったので褒められて妙な気持でした。
Posted by 大橋康隆 at 2012年01月21日 23:14
大曲兄へ
出張のタイミングが悪く残念でした。
Posted by 沢辺栄一 at 2012年01月22日 19:38
大曲、大橋両兄に加え、沢辺兄からもコメント頂き誠に有難う御座いました。今回は、あの頃に諸兄がどの様な生活を送っていたかの一端を知る事が出来、感慨深いものが有りました。海外勤務や海外出張がやはり多いようですね。
小生のこの年は転勤と引っ越し直後で公私共に雑用が多く、フィラデルフィアでの米国建国二百年祭の記憶も殆ど有りません。「そう云えばそんな事もあったな」という程度で、人によってまちまちですね。実はオリンピックの方も、コマネチと女子バレ−位しか覚えていないのです。

Posted by 寺山進 at 2012年01月26日 08:18
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