2012年01月26日

危険との距離/小林 凱

 2012年が明けて相変わらず欧州の経済危機とユーロ安が世界を覆って居る中で、イタリアの豪華客船が転覆するニュースが入って来ました。

 1月13日クルーズ船コスタ・コンコルデイア号が本土近くのジリオ(Giglio)島海岸で座礁し11万トンの巨体が横転、4234人の乗客乗員に死者行方不明多数が出る大事故です。
 この事故に関しては船長がいち早く逃げ出したとか、日本からも可也の参加者が居たが着の身着の儘で放り出されて大変だった様です。そして事故原因として、本来ずっと沖を航海すべき巨大船が何故島に接近したのか、退職する乗員への餞別儀式とかとんでもない話が出てきています。

 この話を聞いて、私は46年前に日本で起きた航空機事故を思い出しました。1966(S41)年は羽田発着便で大事故が続いた年で、先ず2月4日に千歳発羽田行のANA60便(B727)が着陸直前に東京湾に突っ込み133人全員が死亡、次いで3月4日にカナダ太平洋航空402便(DC8)が着陸時に機体を引っかけ大破炎上しました。
 その頃私は豪州へ出張の予定で、3月5日の夕方は当時の伊丹の家で、飛行機事故は嫌だねと家族と話しながら夕食を始めようとして居た処にBOAC機墜落のニュースが飛び込んで来ました。その後はとても食事の気分では無かった。

 この便はロンドン行BOAC911便(B707)で、羽田から香港に向かう途中の午後二時過ぎ、富士山上空5000m付近で乱気流に巻き込まれ機体がバラバラになって墜落、乗客乗員124人も富士山麓に四散して犠牲となった。
 本来この便は計器航行で先ず伊豆大島へ南下してから機首を西に向け香港へ向かう予定でしたが、当日は晴天で機長は出発直前に富士山上空へ向かう有視界飛行を管制センターから許可されています。恐らく富士の景観を乗客に見せたいとのサービス精神から申し出たと思われます。ところがこの日は北西の季節風が強く吹き、富士山上空には猛烈な乱気流(この言葉は事故後に人口に膾炙)が発生して居り、これに巻き込まれたB707機は幾人もの目撃者が見上げる中で空中分解した。
 私はこの事故原因が未だ判らぬ3月9日、羽田17:30発のカンタス航空QF275便(B707)香港経由シドニー行で発ちました。離陸時に滑走路の端に行くと、脇にカナダ航空機の焼け崩れた残骸が積み上げられていました。私の便は離陸直後から悪天候に入り猛烈な揺れの中を飛行し、翼があんなに撓うのかと驚いたが、BOAC機の原因を知らなかったからまだ良かったのだと思います。漸く夕食が出たのは香港到着も近づいてからでした。

 この年の7月に私はアフリカへ出張しました。この時は先ずカイロでの商談に当たりそれから南アのヨハネスブルグに向かう旅程で、出発時の計画ではカイロからケニヤのナイロビに飛び、そこで欧州から来る便に乗るものでした。ところがカイロでの仕事が早めに済むと途端に悪い旅の虫が頭をもたげて、急に現地で予約を変更し7月23日早朝にカイロから逆にギリシャのアテネに飛び、そこで一日見物して深夜にヨーロッパからの便に乗り、翌24日(日)午後には何食わぬ顔でヨハネスブルグに着こうと企みました。
 このアリタリア航空(AZ508)はローマ始発、午前2時アテネ発で予定通りナイロビに着き、9:30出発でさあ最後の旅程で南アへと思った時、機長メッセージで今日は視界が良いから先ずキリマンジェロをご覧に入れてそれから南へ針路を取るとの放送。
 私はちょっとまずいな、若し後で乗客名簿が出る事態になったら、何故あいつがこの便に乗っていたのだ?勝手な事をするから災難に遭うのだと言われはせぬかと思ったが、幸い山の上空は穏やかで何も起きなかった。
 飛行機が山に近づき旋回始めた時、私も席から体を浮かせて外を眺めようとしたが少ししか見れなかった。山頂付近が白くなって居る様に見えたが、これはヘミングウエイの小説からの期待感で余りはっきり記憶していません。

 BOAC機の事故は大きな議論を呼び、当時これ程激しい乱気流が起きるとは思って居らず様々な憶測も有ったが、後の調査から富士山周辺では従来の予想を遥かに超える山岳波が発生している事が判明しました。しかしそれ以前は他の航空会社も似た顧客サービスをしていた様です。
 私がその前年(1965)インドへ出かけた時ですが、6月25日羽田発JAL461便で先ず香港へ向かう際、離陸後間もなく富士山の上空に行くからと機内放送があり、窓際席だったのでカメラを出して置いて写真に撮りました。随分近くで高度も5000m位、丁度BOAC機と似た状況であったと推測します。(写真)
 JALが既に山頂気象を良く調べて居て、この季節は大丈夫と判断していたのかは判りません。
Photo(小林2)(50%).jpg

 話がクルーズ船の事故に戻って、事故後ちゃっかりと救命ボートに移った乗組員とか、これに怒った沿岸救助隊長が逃げた船長に船に戻れと繰り返し指示する電話を地元紙(Corriere della Sera)がNet上で公開して居り、乗客は物理的な距離以上に危険に接して居た事が判ります。
 この運航会社はCosta Crociera社で、その名は「沿岸クルーズ」を意味します。それが沿岸で事故を起こしたのでは駄じゃれにもならぬと言われて居ます。この会社にはコンコルディア号の姉妹船があり、事故後の18日別のクルーズに出航して行きました。新聞も腹が立ったと見え、座礁船のシルエットを前景にその沖を点灯したクルーズ船が通過する様子を、これが適切な距離だと言わんばかりに動画サイトに掲示していました。
 この辺りのクルーズに詳しい人の話ですが、クルーズでは食事が大切な要素だそうで、それは1週間とか10日間同じ船で食事をするからです。米国系の船は顧客扱いはしっかりしているが、食事は量が多いが味は今いち、イタリア系の船は料理の味は良いが顧客対応が今度の事故で露呈した。そこで(大体あの連中ときたら)先ず安全を考える前に、うまいものを腹一杯食べてるんだとのコメントでした。このジョークには毒味があります。

posted by でんきけい at 00:00| Comment(5) | 小林レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
故南雲忠彦君から聞いた話を思い出しました。但し、何時頃のことだったか全く覚えていません。
「小林凱君の乗った飛行機が乱気流に巻き込まれた事が有った。CaptainがGalley Open (高級酒も含めすべてを全員に振る舞う)とし乗客が皆青くなった時、凱君は“じたばたしても仕方が無い”と悠然と飲み始めた。“電機には肝の据わった男がいる”と三菱系の企業間で有名になった。」
Posted by 寺山進 at 2012年01月26日 08:30
出張、旅行、帰省などで随分飛行機に乗りましたが、幸いなことにまだ「危険に異常接近」したことはありません。

それにしても今回のイタリア船長の行動にはあきれて“開いた口がふさがらない”という感じでした。イタリア男性の評価を一挙にしかも大幅に引き下げたと言えるでしょう。土壇場で怖じ気づいたのでしょうか。それに、島に上がってからまずママに電話して「何千人か助けたよ」と報告したとか・・・。

もし、船長が日本人だったら勿論客より先に逃げ出すことなどあり得ず、乗客の安否確認に手間取っていつまでも退去しないため沿岸警備隊が遂に退去勧告を出し、それでも応じないので沿岸警備隊が手こずった、なんてことになっていたのではないでしょうか。
島の近くを通るのは今回初めてというわけではなく半ば常態化していたようで、警笛を鳴らしたり照明を派手に点けたりして島の住民を喜ばせていたとのこと。事故は起こるべくして起こったと言えそうです。
Posted by 大曲 恒雄 at 2012年01月26日 10:34
小林様 私も1966年の航空事故が続いたのをよく覚えています。
 特に羽田沖のB727墜落事故は忘れられません。当時、私が仕事上関係のあった役員が、札幌からの出張帰りに当機に乗っており犠牲となりました。しかも会議の都合で、空港に着くのが遅れ、飛行機のドアを閉める寸前に送ってきたきた営業課長が頼みに頼んで最後の乗客として乗せてもらい、ほっとしたのも束の間で、墜落の報が入り、その課長が、TVの前で号泣していたのを昨日の様に覚えています。  
Posted by 新田義雄 at 2012年01月26日 11:24
小林兄の肝の据わり方には感嘆しました。森山兄へのコメントにも書きましたが、小生は今でも航空機の離陸、着陸時は緊張します。新田兄のコメントは涙なくして読めません。人間の運命の過酷さを改めて思い出します。大曲兄が「危険に異常接近」したことがないとは、全く幸運ですね。
小生にとって、一番印象に残っているのは、1972年11月29日にモスクワ近郊で日本航空が墜落した時です。当日、小生はCCITT(国際電信電話諮問委員会)に出席していて、スイスのジュネーブにいました。12月2日の17:30に空港を離陸して、パリに向かいました。スイス航空の中型機は山岳めざして急角度に上昇しますが、後ろに滑り落ちそうな気がしました。翌朝パリ空港では厳重な身体検査を受けた後、JAL-440便に乗り、モスクワに向かいました。通常、給油は1時間位ですが、3時間待たされました。やがて遺族の方々が入室され、棺も搭載されたようでした。この時のことや、1日違いで命拾いしたことなどは別途まとめて投稿したいと思います。
イタリア船事故や、航空機事故、更にはハワイの潜水艦衝突事故など、いずれも顧客や社員、職員へのサービスが発端になっていますが、本当のサービスは安全であることを忘れてしまっては本末転倒でしょう。
Posted by 大橋康隆 at 2012年01月26日 13:07
新田兄ご存じの幹部の奇禍それも最後の搭乗者、本当にあっと思いました。しかし日本人の責任ある立場ならこの様に無理しても乗られたでしょうね。なお1966年3月のカンタス便がFreeDrinkだったか覚えて居ませんが、この便に南雲兄と同じ商事の方が搭乗して居てご挨拶した記憶があります。
Posted by 小林 凱 at 2012年01月27日 20:46
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