![]() |
(写真1) ダイナブック |
(*1)20万円を切る価格設定とF1レーサーの鈴木亜久里を起用したCMでかなり話題になった。
OSはMS-DOS5.0、真っ黒画面に暗号のようなコマンドを打ち込みPCと「会話」をしながら仕事を進めるスタイルで今では想像もできない感じ、まさにPC黎明期であった。
当時はこのスタイルのPCをラップトップ型と称していたが、これは膝の上に置いて使えるという意味である。この「ラップトップ」は現在では殆ど死語になり、ノートPCという呼び方が一般的になっている。
文書作りは専用のワープロの方が便利だったからPCの用途は専らパソコン通信だったと思う。現在のようなメールの交換はそれ程なく、フォーラムと呼ばれる「会議室」(沢山あった)に参加して、PCやパソコン通信関連“先輩諸氏”の経験談や意見を聞き参考にすることが多かった。
Nifty(当時はNifty-Serve)への加入は1992年3月。その後しばらくは、毎年の加入記念日にNiftyから「加入して頂いてから◯年目に当たります」という挨拶メール(いわばBirthday Mail)が送られてきていた。
![]() |
(写真2) 9821Mate |
しばらくダイナブックを使っていたが、やはり性能的に不満を感じるようになったので1993年春デスクトップ型のPCに切り替えることにし、選んだのがNECの98Mateシリーズの中核機種PC-9821Asであった(写真2)。やはり石丸電気のマイコンセンターまで出かけ、標準価格50万円程度のものを3割引きくらいで買ったと思う。NECはそれまで独自路線を歩んで来たが、Windowsの登場なども刺激になって遂にIBM互換方式へ転換することとなり、型名もPC-9800からPC-9821へと変更された(*2)。ノート型とは違い、拡張基盤(*3)の追加や交換、ハードディスク(HDD)の増設などで自由度が大幅に増し、大変使い良くなった。
なお、Windows3.0日本語版は既に発売されていたが、NECのPC-9800シリーズが主流であった日本ではWindowsが実用的に動くPCが殆ど存在しなかったためそれ程普及していなかった。それで、このパンフレット本文には「ウィンドー環境での利用に最適」などという奇妙な表現が出てくる。
(*2)これはNECにとってまさに“清水の舞台から飛び降りるような決断”だったと思うが、結果は大成功であった。 また型名のPC-9821には21世紀向けのPC-9800という意味が込められていたそうだ。
(*3)当時のPCは基本的な機能だけをまとめた形で売られており、通信・表示・画像処理など少しでも特殊な処理をしようとすると拡張基盤と称するプリント基板を増設し、専用ソフトを準備する必要があった。
Windows3.1から本格的なWindows時代に入るわけだが、日本語版の発売はNEC版が1993/5/12、マイクロソフト(MS)版が5/17である。
小生がWindows3.1を買いに行ったのは5/19、また石丸電気へ。MS版は山積みされていたがお目当てのNEC版は売り切れ。店員に聞いたら最初に少し入っただけで直ぐに品切れとなり入荷未定とのこと。やむを得ずMS版を買う。平日にも拘わらず相当のペースで売れており、Windowsへの期待の大きさを実感させられた。
翌日早速インストール。当時は記録メディアが3.5インチフロッピーディスク(FD)しかない時代で、大規模化したOSを収納するにはFD数十枚を要した。それに付属のドキュメントも猛烈で、多分厚さ3cmくらいあったと思う。そのドキュメントの要点を読んだ上で、FDの順番を間違えないように積み上げ、1枚ずつPCに読み込ませる。文字通り、PCに魂を入れる儀式のような感じがしたものである。
当時の日記によると、インストールはまずまず順調に進み(ただし時間は相当かかったはず)、インストール完了後試運転がてらトランプゲームのFreeCellをやってみたらゲームの進行が従来のものより格段に早くなり「カードが飛ぶように動く」と大喜びした様子が伺える。
話は前後するが、秋葉原にLaox「ザ・Computer館」が華々しくオープンしたのは1990/4/29、「ザ・コン」の愛称で新生・秋葉原のシンボルとして親しまれた。8階までびっしりPC関係の商品が並び、さながらPCのデパートという感じであった。品揃えも充実していたためショールーム的な役割も十分で、何かほしい時はまず「ザ・コン」へ行っていろいろ見比べ、品定めしてからハラを決めてそこで買う、別の店へ行って買う、もうしばらく考える、などと以後の行動を決めるスタイルが普通だった。小生も随分お世話になったものである。
しかし、時代の波には逆らえず「ザ・コン」は2007/9遂に閉館。これには2005/9開店したヨドバシカメラ秋葉原店の影響が大きかった。Laoxは2009年に中国資本傘下に入り、現在は中国人観光客向けの免税店として数店舗が営業しているようである(銀座松坂屋の6階にもある)。
1980年代前半は未だ企業でしか使われていなかったと思います。文書処理にはワ−プロ、パソコンの方は表計算、所謂Spread Sheetが殆どでした。これまでの汎用機のライン・プリンタ−からの出力、即ちカタカナと数字が羅列した膨大な用紙の山を見る不便さに比べ、ロ−タスの使いやすさは圧巻でした。但しワ−プロやパソコンは大切な道具で、専門のオペレ−タしか操作が許されない時期もしばらく続きました。
小生も大いに啓発されて、グーグルを調べてパソコン博物館を発見しました。1985年、最初に購入したのはPC-9801VM2であると思います。価格41万5千円とありましたが、社員販売で購入したので、割引がどれ位だったか、記憶がありません。CPUはNECオリジナルのV30が搭載されていたので、安く販売されていたようです。メインメモリーが384kBしかなく、すぐに 640kBに増設しました。日本高速通信で、各社から出向してきていた課長さんや主任さんから「大橋さんでは無理ですよ。休日にアルバイトで行きましょうか?」と冷やかされたので、意地を通して自力で増設しました。
ソフトは秋葉原で「パビルス」を9万円で購入し、フロッピー1枚にしては高いと思いましたが、勉強しなくて使えたので有難味が身に染みて解りました。引続き、ファラオ、ナイルのお世話になりました。Lotus「1-2-3」があることは知っていましたが、価格が27万円とは驚きました。
次に購入したのは、PC-9821ですので、随分長い間 PC-9801VM2 を使ったことになります。昔のパソコンは大型で、部品数も少なかったので、部品の故障が少なく頑丈でした。最近は小型で便利になりましたが、壊れやすく、一度壊れると大変なことになります。
私のパソコン遍歴は、1983年のFM7から始まります。中学生になった息子に高級オモチャを買ってやった思いで購入し、親子で触りました。しかしF−BASIC言語のため苦労しながらいろいろ動かしましたが、楽しむまではいかず、パソコンへの拒絶感をなくすのが精一杯でした。(息子は高校生になると、東芝ダイナブックを買い、楽しんでいました。)
私個人の専用機は、1994年WINDOWS3.1を最初に搭載したFMV488Cで、マルチメデイア、オール・イン・ワンをうたっていました。RAMメモリー4MB,HDD410MB(GBではありません。)、ワープロはオアシスでしたが、これにキャノンのプリンターをつけて大いに楽しみました。一通り楽しんだ後、処理スピードを上げるため、4MBのRAMメモリーを購入し、こわごわパソコンのカバーをはづし、メモリーを挿入し操作した時の動作の軽くなったこと、まさに感激ものでした。やがてパソコン通信をやるため、イーサネット板 10BASE−Tを購入して装着し、パソコン通信とインターネットのプロバイダーに入り、まだ始まったばかりのインターネットを楽しみました。とは言うものの通信速度が、1.33kb/sと遅く、一つの画面を出すのに大変な時間がかかりました。困ったことは、ソフトウエアをダウンロードするのに1時間ぐらいかかることは普通で、途中に電話がかかってくるとオシャカになりますので、祈るような気持ちで、ダウンロードしておりました。
ついにHDD410MBの空きが少なくなったとき、データー圧縮をかけました。(これは後で知りましたが、絶対に手を出してはいけないとのことでした。)1年ぐらいは無難に動いておりシメシメと思った矢先、フリーズし、梃子でも動かなくなり、目の前が真っ暗になりました。データーは、殆どバックアップできておりませんので、本当に困りましたが、やむを得ず、バックアップCDで最初の状態に戻しました。これに懲りて、外付けHDD2.1GBを購入し(この頃にはこの様な装置が売っていました。)、更にWINDOWS95へのグレードアップCDソフトを購入してその後しばらくはこれで楽しみました。通信速度もADSLが出来、早く、しかも専用回線の様になりずっと使いやすくなりました。
その後は、WINDOWA98機、WINWOWSME機と光通信、そして現在のWINDOWS7機になり、家庭内で2台を別室において使っています。
しかし印象に残っているのは、WINDOWS3.1機で、いまでも懐かしく思っています。
続けて2月1日号に(その2)を掲載予定ですので、またよろしくお願いします。