2012年04月16日

ゴルフ思い出話(その1)/大曲 恒雄

 早いもので、Last Golfをプレイしてからもう7年余になる。

小生がゴルフ(の練習)を始めたのは1973年の正月から。40才になってからで、スタートとしては遅い方だと思う。
 
 ゴルフを始めるまではボーリングに凝っていた。それもかなりのもので、マイボールと靴をボーリング場に預け、週に1〜2回練習に行って数ゲーム投げ、時には試合にも出ていた。それが或るキッカケで、40歳になった年の暮れからゴルフに“転向”することとなった。

  「来年からゴルフをやるぞ」と決めて、1972年の大晦日に横浜の岡田屋にゴルフクラブを買いに行き、ミズノのハーフセットを3万円くらいで買った。当時、小生は神奈川区の片倉台団地に住んでいたが、この団地は丘の上に造成されていて丘の上り斜面、しかも我が家に一番近い所にゴルフ練習場があり、打席に立つと真正面に我が家のある棟の上層階が見えた。距離はドライバーでナイスショットすると(もし途中にネットが無ければ)ちょうど我が家のあたりに着弾するくらいの感じであった。
 クラブを買った翌日は元旦で練習場も休み、次の1月2日から練習場通いを始めた。毎日とは行かなかったが週に2〜3回くらい、残業無しで帰宅すると夕食前にまず練習場へというような調子だった。

 練習は7番アイアン(7I)の打ち込みから始めた。これは最初に読んだ本に「スイングの基本を体に覚え込ませるのには5番アイアン(5I)が理想的だが、5Iは結構難しいので7Iから始めるのが良かろう」と書いてあったのでそれに従ったわけ。7Iにある程度の自信がついてから5I、9Iとレパートリーを増やして行き、その後でドライバーに挑戦した。
 「ゴルフ始め」の方法は人それぞれだと思うが、諸兄はゴルフの練習を始めるに当たってどのようにされたのだろうか?

 “コースデビュー”は1973年の3月、磯子にあった横浜プリンスのショートコースで。このコースはその後間もなく閉鎖されて横浜プリンスホテルに生まれ変わり、そのホテルも数年前に閉鎖・取り壊されてしまい、間もなく高層マンションが建つらしい。
 小生がゴルフを始めて間もなく鎌倉CCの隣に鎌倉パブリックCCがオープンした。最初は9ホールだけの変則営業だったので、その9ホールを3回回ったものである。そう言えば、その頃は(その後もかなり長い間)27ホールプレイすることが多かったように思う。幾つかのゴルフコンペ規約がまだ残っているが、「27ホールストロークプレイ」と明記してある。これはゴルフ人口が急に増えてゴルフ場の予約が取りにくくなったことも一因だと思う。

 最初の年は「あいつがゴルフを始めたらしい」とお誘いが結構来て、またそれに律儀に対応したため4月からの9ヶ月間に20数回ゴルフ場に行った。体力、資金共によく続いたものだと思う。ゴルフは最初が肝心と言うが、最初に猛烈に頑張ったおかげで次の年には平均スコアが100を切るようになった。そうなると益々練習にも熱が入るようになり、また実戦経験も積んでかなりのスピードでレベルが上がって行った。
 その頃はゴルフ場の新設ブームでもあり、よくこんな所にゴルフ場を作る気になったものだと感心するような所にも新しいゴルフ場が作られて行った。最初の頃よく行った湘南の或るコースは、かなり傾斜のきつい山の7合目あたりから3合目あたりまでに18ホールが散りばめられていて、フラットで真っ直ぐなホールは殆どないという凄いコースだった。豪快な打ち下ろしが楽しめるのは良いが当然アップダウンは猛烈で、何回もリフトのお世話にならねばならなかった。
 1975年頃だったと思うが、葉山国際CCの平日会員権を90万円くらいで買った。土曜日もプレイ可能なので専ら土曜日にプレイしていたが、自分で予約を取るのはかなり大変だった。朝9時の予約受付開始と同時に電話をかけ始めるが、話し中でなかなか通じない。15分か20分頑張ってやっと電話が通じた頃は遅いスタートしか取れず、「キャディはいないのでセルフでお願いします」と言われたことが何度もあった。

 S.30同期会コンペがスタートしたのは1978/5で、第1回は浜田君のメンバーコース取手新日本Gで開催。他に野武、渡辺、中島、山浦、田中(康)、香川、遠藤、田中(健)の諸兄が参加している。ハンディキャップはキャロウェイ方式で、浜田君が優勝、小生は2位だった。このコンペは1982/6の第8回まで続き、出場者には他に和久本、古宮、高井、塩見、鈴木氏などの名前が見える。
 一方、斎藤さんの肝いりで富士見会コンペが平塚富士見CCでスタートしたのは1996/5、かなり時間が空いたこともあってメンバーもすっかり入れ替わっている。第1回コンペの出場者は他に新井、太田、大橋、高橋、中林、納所の諸兄で、中林兄が優勝している。ハンディキャップは斎藤さんの提案で日立方式と称する変則的なルールが適用された。

 東芝小向工場勤務の終盤5年くらい(1980/4〜)は工場の管理をする立場となったために工場の協力会との付き合いが増えた。当時協力会は下請け業者関係、工場構内作業関係、経理関係と3つあったがそれぞれにコンペがあり、併せて年間7〜8回行われていた。中でも下請け業者関係のコンペは一番活発で、毎回15組くらいの大コンペとなるためコースを1時間近く貸し切り、INとOUT同時スタートでやるのが普通だった。夏のコンペは工場が夏休みになる7月の終わり頃戸塚CCのチャンピオンコースである西コースで開催するのが恒例で、炎天下大汗をかきながらラウンドしたものである。
 

 1985年から本社勤務となり、放送機関系、移動無線関係もカバーするようになったために行動範囲が全国区となり、北海道から沖縄まで日本各地のゴルフ場でプレイする機会が増えた。正確に数えたわけではないが、47都道府県のうち30くらいは訪ねたのではないかと思う。 1988年、新潟の或る放送局とのお付き合いで新潟オープンのプロアマ戦に出たことがある。これは正式のプロトーナメントの前日にチャリティイベントとして行われたもので、アマ4人とプロ1人が組み、ホール毎にアマのベストスコアとプロが競う(勿論ハンディキャップを付けて)スタイルだったと思う。我々の組の担当プロは鷹巣南雄プロだった。プロは当然バックティーからドライバーを打つし、コースの中でも別の所を歩くことが多いので話をする機会はそれ程無かったが、面白い経験をさせてもらった。
 

 所で、32年ほどの間にゴルフを600回くらいプレイしたと思うが、残念ながらホールインワンは1回もやっていない。ただ、“ニアミス”は何回かある。一番際どかったのは西熱海Gで行われた協力会コンペの時。やはり15組くらいの大コンペで、前夜は西熱海ホテル泊だった。打ち下ろし受けグリーンのショートホールで、カップ手前2mくらいの所に落ちたボールがゆっくり転がってカップのフチを舐めながらカップ上30cmくらいの所に止まった。後で協力会の幹部に「もし、あれが入っていれば皆でもう一晩泊まってお祝いをしようということになったはずです」と言われ、冗談半分とは言え冷や汗をかいたものである。

                             
                                            (その2へ続く)

posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 大曲レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
不思議なものですね。昔の手帳を調べてみたら小生も1973年正月に最初のゴルフクラブを購入しています。当時国立の富士見台団地に住んでいたので、富士見台ゴルフセンターに通っていた記録があります。親切な方がドライバーから思い切り飛ばす練習をするよう教えてくれたので、以後の進歩は遅くなりました。
最初にコースに出たのは伝送会コンペでした。運悪く、パートナーの一人が、研究所から伝送に来て大改革を始めた S 事業部長(後に社長、会長)だったのです。ゴルフが終わり、帰りの電車の中で有名なラウドスピーカーが鳴り響きました。「皆よく聞け。世の中に図々しい奴は大勢いるが、今日は吃驚した。生まれて初めてコースに出たのに、コースのレイアウトを出して眺めている。横から見ると第一打、第二打と赤でマークが付いている。設計通りに動かないのは、D プロジェクトと同じだ。」
S 事業部長の大改革の理想には皆共鳴していたが、実行は大変で現場は大混乱していた。ある日事業部会議で私は本音を言ってしまった。「朝令暮改なら付いてゆけますが、朝令朝改では付いてゆけません。」直ちに反論された。「君子豹変すという言葉を知っているか。」私は「何時君子になられたのですか。」と言おうとしたが、上司や、居並ぶ先輩方が怖い顔でこれ以上言うなというサインを出されたので、頭を掻いて恭順の意を示してチョンになりました。
Posted by 大橋康隆 at 2012年04月18日 12:32
大橋兄へ
小生も1968/4から1年ちょっとの間、富士見台団地に住んでいたので短期間だけど“ご近所”だったわけです。
もし、あと何年か住み続けていればゴルフ練習場で鉢合わせしたかも知れませんね。
Posted by 大曲 恒雄 at 2012年04月19日 10:15
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