2012年04月21日

「五月人形」 と平和ぼけ/新田 義雄

 齋藤さんが2月6日に投稿されました「おひなさま」に刺激され、私も我が家の雛人形を引き出して、本当に久しぶりに(虫干しもかねて)飾りました。

五月人形(1a).jpg 事のついでと言いますか、成行き上とでも言いますか、今度は「五月人形」も引き出して飾ることにしました。我が家には、ピアノのレッスンを受ける男の子女の子が出入りしていますので、床の間ではなく、子供達が見えるように廊下に向けた机の上に並べました。さらに鯉のぼりも引き出し、さすがに外に飾るのは気恥ずかしいので、(老夫婦二人というのが、隣近所では分っていますので、)雛人形の横に並べて立てかけました。
 さてこれで完成とばかり写真を撮り、場合によっては、「五月人形を飾りました」と投稿でもしようかと考えていました。(上の写真)
だがしかし、なんとなくすっきりしないので、もう一度よく見ましたら、なんと驚いたことに、鎧の両側に置く 太刀と弓矢 が置いてなく、慌てて探し出して飾り、ほっとして撮ったのが下の写真です。そうして我ながら、平和ぼけがここまで極まったかと思わず苦笑いしました。僅か4か月ではありましたが受けた軍事教練だったら、教官から「敵地に行くのに武器を持たずに行くのか。」と思いっきりの大目玉を受けただろうなと想像して、またまた苦笑しました。image003b.jpg

 しかし、私にはどうしても平和ぼけにはなれないことがあります。私にとりましては、今回の3月11日だけではなく、3月10日があります。それは、昭和20年3月10日の東京大空襲です。前年の夏休みに東京の小学生全員に疎開命令が出たので、6年生の私は、母、弟、妹と4人で縁故を頼って新潟県に疎開していましたが、3月には東京の中学を受験するべく願書も提出し、荷物一式を東京に送り返し、明日東京に出発という直前にこの悲惨な大空襲となりました。それまでの空襲は、B29が10,000mの上空から立川を中心に軍需工場を狙っていましたので、都市では大きな危機感が無く中学になったら東京に帰れると呑気に考えていましたが、3月10日を契機にアメリカは、一般市民を狙った無差別爆撃に切り替え市民の厭戦気分を盛りあげて降伏に早く持っていこうとの作戦を取ったようであります。戦後分ったことは、このために日本の木造家屋を焼き払う最適な焼夷弾(後のナパーム弾)、二階の瓦屋根を突き抜けて一階の畳で発火する信管を開発し、砂漠で十分なテストを繰り返し、また焼夷弾による爆撃は隅田川と荒川に挟まれたデルタ地帯の周囲を取り囲むように一気に火の柱を立て、この為には超低空で狙い定めて焼夷弾を落とす作戦を立てました。3月9日から10日にかけて東京では台風まがいの強い風が吹くことをつかみ、サイパン島、テニヤン島から、325機のB29が積めるだけの焼夷弾を積み、(このため、機銃も外し、乗員も減らし)10日午前0時過ぎより、東京のデルタ地帯の周囲を囲むように、高度1500mの低空から1800トンもの焼夷弾を一気の落とし下町を焼き払いました。僅か3時間の空爆で、死者10万人、被災者100万人の大被害を受けました。通常兵器での過去最大の大惨事でした。勿論、死者、被災者に対して何の助けもなく、自分で始末をつけなければならなかったのは言うまでもありません。
 私どもの疎開先にはラジオ放送の簡単な情報しか入らず、やきもきしていましたが、4日目に漸く父と兄が疲れ果てて疎開先に到達し、先ずは無事だったことを喜びました。
 しかし、その後父も兄も、戦災の状況を一言も話すことなく、父はそのまま他界しましたが、兄も語ることなく、しかし67年たった最近になって「東京スカイツリーを到底見る気がしない。」と周囲にポツリと語ったそうです。火の中を逃げまどい自分は何とか生き延びたものの、死んで真っ黒焦げになり、まるで塵あくたの様にトラックの荷台に積まれて取り払われた被災地に建つ眩いばかりの東京スカイツリーを、到底見る気になれないと言う事だと思います。いかにあの時の衝撃が大きかったかよく表していると思います。私の6年生の同級生の大半は集団疎開で千葉県のお寺に疎開しましたが、10日の直前に帰京したため、まともにあの大空襲に遭い、生き残った我々が戦後、同級会を開くべく安否を尋ねましたが半数の人がいまだに所在が不明です。
 終生忘れることの到底出来ない辛い思い出です。

 5月人形の鎧を飾って、太刀と弓矢を出すのを忘れた平和ぼけの話から思わぬ方向に思いがとびましたが、いずれにしましても平和の有難さをかみしめ、これがいつまでも続くことを願わずにいられません。
posted by でんきけい at 01:22| Comment(9) | 新田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「5月人形」の太刀と弓矢の話を読んで昔のことを思い出しました。小学1年生の頃だと思います。祖父が 5月人形の弓矢を取り出して、私に模範を示すため矢を射たのです。ところが手元が狂って矢がトイレの硝子を割ったので私は吃驚しました。私の父は弓の名手で、よく女学校に招待されて模範試合をしていましが、一度も的を外したことはなかったのです。祖父は余程私が可愛かったのでしょう。その祖父も太平洋戦争が始まる半年前に亡くなりました。
3月10日の東京空襲の話は、身につまされます。岡山は6月29日に空襲を受けました。炎が収まって、昼過ぎに焼け残った弘西小学校に行きました。運動場は火葬場となり、3階建ての校舎は野戦病院で重傷者が溢れていました。この光景は忘れることができません。新田兄の父上や兄上のお気持ちがよく判ります。「長崎の鐘」を観て(2009-8-3)に武田兄が同様なコメントをされています。
Posted by 大橋康隆 at 2012年04月21日 14:59
コメントの最後を間違いました。「長崎の鐘」を観て(2009-8-3)を「人間の条件」を観て(2011-09-01)に修正します。
Posted by 大橋康隆 at 2012年04月21日 15:11
3月10日の大空襲には、山形の集団疎開先から病気になったため帰京していて、B29の焼夷弾攻撃を受けました。江戸川区平井に居まして、一帯の家が焼けました。幸い、早い時点で、周りに火がつく前に、一家で荒川放水路の小松川橋を渡り、小岩の父の知人の家まで逃げていきました。今思い出しても、怖い経験をしました。
Posted by 井村 英一 at 2012年04月21日 15:26
大橋様 井村様
 早速のコメント有難うございます。大変な経験をしていますね。大橋さんも、校庭が火葬場になったり、校舎が野戦病院になったのを見たら、子供心に大きなショックを受けたことと思います。井村さんも直接3月10日の大空襲を受け、生死が紙一重の差の経験をしましたね。もしあの時、小岩と反対方向に逃げていたら大変だったと思います。
 いずれにしましても二度としたくない経験ですね。
Posted by 新田義雄 at 2012年04月21日 20:31
私の投稿がきっかけで新田さんのおうちのお雛様と五月人形が良い空気を吸うことが出来たのはなによりでした。それにしても戦時中の空襲はすざまじいものでした。私は東京大空襲の時には疎開して尾張一の宮の在におりましたので、東京の惨事には会いませんでしたが。過日あるところで一緒になった新婚さんに「これからの世の中、年金にも不安が残るし、経済も社会もどうなるかわからんし若い人たちは不安だろうね」と話しかけましたら、「皆さんの時代も戦争での苦労がたいへんだったのだから、それに比べれば平和の中に生きるわたしたちはまだ幸せ」という思いもかけない返事が返ってきました。空襲を、戦争を知らない世代の若い人たちも様々な形でその悲惨さ、70年前の人たちの苦労を理解していてくれているのだなと胸が熱くなりました。
Posted by サイトウ at 2012年04月21日 21:00
 新田君の記事や皆さんのコメントを読んで、僕もあの頃のことを思い出しました。集団疎開の経験や戦時中の僕らの生活などは、死ぬ前に書き残しておくべきだと思っているのですが、80歳になろうというのに、まだ実行していません。それで、よい機会ですので、粗雑な記憶をもとに少しだけ書かせてもらいます。 
 僕はあのとき縁故疎開ではなく集団疎開を選んだのですが、昭和19年の8月22日の夜行列車で福島の土湯温泉に疎開しました。そして、卒業のため、20年の2月22日の夜行で福島を発ち23日朝尾久駅に戻ってきましたが、あの日は東京が大雪で、朝着いたときは既に晴れていましたが、20センチも積もった雪道を尾久駅から尾久5丁目の家まで歩いて戻ってきた記憶があります。
 3月の大空襲のときは、家の台所の床下に父が堀た小さな防空壕に入っていましたが、ひとしきりして、隣組の見張りの合図だったのか、壕の外に出ました。すると真夜中なのに空は真っ赤で昼のように明るいのです。新聞が読める明るさだったという人もいます。そこを低空でB29が次々と頭上を飛んで行きました。飛行機のシェルエットが赤い空を背景に真っ黒に大きく見えましたが、自分たちの頭上に焼夷弾を落として行く気配はなく、既に投下し終わったB29が次々と頭上を通り過ぎて行く光景でした。遠くの方から周り中が火の海になってきているので、逃げないと危ないという判断で、皆、壕の外に出て、周囲の状況を見たのだと思います。幸い、この時は、尾久あたりはやられなかったのですが、そのあと直ぐに、防火帯をつくるからという理由で、強制的立ち退き命令が出て、あのあたりの家は戦車で全て壊されました。仕方なく、親戚一家が田舎に疎開したあと空き家になっていた本郷の家に引っ越しましたが、毎日、空襲がひどくなって行くので、僕と母は福島の親戚を頼って疎開することになりました。父は当時の逓信省で電話回線の維持の仕事をしていたので東京を離れられないので残りました。僕と母は、長い行列に並んでやっと手に入れた切符を握って、4月13日の夜行列車で福島に向かいましたが、その夜、東京大空襲があって本郷一帯も焼けました。父は一人だったので何とか逃げられたが、お前たちが居たらとても逃げられなかったと言っていました。大火災で起る強風と煙で、東大前から駒込に通じているあの大通り(当時は市電が走っていた)さえ立って歩けなかったそうです。しかも、壕から出たため焼夷弾にやられて火だるまになって死ぬ人や、飛んできた火の粉が強風で体に張り付いて取れないのに気づかず、衣服が燃える人などを見ながら、近くの「お富士さん」と親しまれていた神社の境内にやっとたどり着いたそうです。しかし、そこも逃げてきた人で一杯で、境内のご神木も火の粉が張り付いて燃えてしまう有様で、どうやって朝まで無事でいたのか分からないと父は述懐していました。僕らの出発が1日遅れていたら、一家全員助からなかっただろうと思うと、汽車の切符があの日に買えたことが一家を救ったと思いました。
Posted by 武田充司 at 2012年04月22日 08:30
サイトウ様 我が家のお雛様と五月人形が、サイトウ様にくれぐれもよろしくお伝え下さいとのことでした。
 それにしましても、斎藤さんのコメントにありました若者の言葉には感動しました。このような若者がいる限り、日本もまだまだやれると意を強くしました。
Posted by 新田義雄 at 2012年04月22日 08:43
武田様 コメント有難うございます。尾久は、3月10日の戦災は免れたようで良かったですね。しかし小さい防空壕の中でさぞかし怖かったでしょうね。(昭和17年4月18日の東京初空襲のときは、尾久の旭電化が爆撃されたようですが、いろいろな巡りあわせがありますね。)しかしそれ以後、本郷で一日の差で惨事に合わなくて本当に良かったですね。全く人間の生死は、紙一重の差を感じます。
 このような戦争の悲惨さを、われわれは、若い世代に伝え、平和のありがたさを一層感じたいものです。
Posted by 新田義雄 at 2012年04月22日 09:01
 新田君のコメントの中の「旭電化」という文字を見て、ふと思い出したのが「アデカ石鹸」です。あれは「アサヒデンカ」の3つの頭文字をとって「アデカ」としたのでは、と突然思ったのです。今なら、「ADK」とするところでしょうが・・・。あれは洗濯石鹸で、四角いゴツイ形をしていました。木の盥に洗濯板を置いて、その板の上で、衣類にアデカ石鹸をこすり付けてゴシゴシと洗うのです。石鹸の両面は凹んでいて、その凹んだ面に「アデカ」と片仮名でさらに凹んだ文字が入っていたように思います。
 日中戦争(当時は「支那事変」と言っていましたが)の時代はまだよかったのですが、太平洋戦争が始まって、昭和18年頃になると、石鹸も品不足になってきて、砂が入っているのではないかと思われる灰色のザラザラ感のある洗濯石鹸が出回りました。これは、ほとんど泡が立たず、汚れも殆ど落ちない代物でした。それに対して、アデカ石鹸は、殆ど品質が変わらず、貴重品になっていましたが、何とかアデカ石鹸を見つけると、大喜びをしたものです。僕は小さい時から、母から銅貨を渡されて、洗濯石鹸を買いに出されていたので、アデカ石鹸の匂いと感触は忘れられません。それに、僕が子供時代を過ごした東京の下町の場末では、千住火力発電所の4本煙突と旭電化くらいしか自慢できるものも無かったと思います。
Posted by 武田充司 at 2012年04月22日 22:12
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。