2012年07月11日

跳ね橋いろいろ/大曲 恒雄

 オランダには跳ね橋があちこちにあり、風景のアクセントなっている。運河が発達していて舟の交通も盛んだったため、陸の交通と舟を両立させるために普及したものと思われる。
(写真1)はハーレムの跳ね橋で、かなり頻繁に開閉されているようであった。周辺を散策しながら時間をつぶして跳ね橋が開くのを待ち、開く様子を連続撮影した。
 IMG_3192b.jpg
    (写真1)
  ハーレムの跳ね橋


 跳ね橋と言えばゴッホの絵(写真2:出典はWikipedia)が有名であるが、これは南仏アルルの跳ね橋で、描かれたのは1888年。この橋は現存せず、再現されたものがあるようだがイメージはイマイチらしい。
 デルフトでも跳ね橋を見かけた(写真3)。デルフトは、最近益々人気が高くなっている画家フェルメールの生まれ故郷である。後で聞いた話によると、(写真3)を撮影した場所はフェルメールの数少ない風景画の1つ「デルフトの眺望」(写真4:出典はWikipedia)の描かれた場所の近くだったらしい。
アルルの跳ね橋.jpg P1000291a.jpg デルフトの眺望.jpg 
    (写真2)
「アルルの跳ね橋」/
  ゴッホ

   (写真3)
デルフトの跳ね橋
   (写真4) 
 「デルフトの眺望」/
  フェルメール
 

 数ある跳ね橋の中で最も有名なのがマヘレの跳ね橋で、アムステルダムに残る2つの木造跳ね橋の1つ。アムステル川に架かっており現在でも船が通るたびに開閉するそうだ。オリジナルは1670年頃に建造され、その後何回か再建された。夏の夜はライトアップされ、アムステルダムの名所の
1つになっている。2003年5月にアムステルダムを訪れた時、ライトアップのことを聞き仲間と出かけてじっくり眺め、ビデオに収めてきた。ビデオにはライトアップへのカウントダウンを入れてみた。

 跳ね橋は昔東京にもあった。隅田川の勝鬨橋である。跳ね橋とは言わず可動橋と呼んでいたようである。Wikipediaによると完成は1940年、皇紀2600年を記念して月島地区で開催予定であった日本万国博へのアクセス路とする計画の一環であったため、格式ある形式かつ日本の技術力を誇示できるような橋として計画され、外国からの技術を導入せず全て日本人の手で設計施工されたとのこと。日中戦争の激化などもあった博覧会は中止されたが勝鬨橋は無事完成し、「東洋一の可動橋」と呼ばれた。当初から路面電車用のレールが敷設されていて1947〜1968年の間都電が走っていた。設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開けていたそうだが、船舶通行量の減少に伴い開閉回数が段々減り、遂に1970/11/29が最後の開閉となった。その10年後には電気の供給が停止され、可動橋ではなくなった。
橋が開いた状態の写真を探した所下記の資料が見つかった。
  http://www.zenitaka.co.jp/bridge/kachidoki.html



posted by でんきけい at 00:00| Comment(1) | 大曲レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
マヘレの跳ね橋の点灯、情緒があっていいですね。この瞬間を撮ろうという熱心さに頭が下がります。1940年(オリンピックの辰年)6月に万博会場と築地を結ぶ幹線道路としてできた勝鬨橋は小生も何回かみに行きました。橋が開く前に付近の交通が縄張りで遮断され、サイレンが鳴って橋が次第に開いていく。開いた形がバンザイをしたようなので戦時の時流にものって「勝鬨橋」なんだと思っておりましたら、後年ここを訪れたときに碑文をみて、日露戦争の記念でここにすでに「勝鬨の渡し」があったとあるのを知りました。昨年江戸東京博物館で「都営交通100年」の特別展がありましたがその折に勝鬨橋の精巧な模型が展示されていました。ちゃんと橋があきます。懐かしい展示でした。いまだに橋を跳ね上げているオランダには感服します。
Posted by サイトウ at 2012年07月15日 15:06
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