2016年02月16日

リトアニア史余談55:もうひとつの「氷上の戦い」/武田 充司

 「氷上の戦い」といえばアレクサンドル・ネフスキーが1242年4月にチュード湖畔で西欧キリスト教徒の軍団を破った戦いが有名だが(*1)、リトアニアのトライデニスが戦ったもうひとつの「氷上の戦い」を知れば、アレクサンドル・ネフスキーの勝利も影が薄くなるだろう。

 13世紀後半のリトアニアでは、建国の祖ミンダウガス王が暗殺されて以後しばらく混乱が続いたが(*2)、1269年、権力の座に就いたトライデニスは、周辺からの脅威を取り除き、国内での威信を高めようと、矢継ぎ早に幾つかの遠征を企てた(*3)。そのひとつが1270年のリヴォニア遠征であった(*4)。

 1270年の冬、大軍を率いてリヴォニアに侵攻したトライデニスは、リガ湾の岸辺に立って凍結した海をみたとき、氷上を進軍してサーレマー島を襲撃する決心をした(*5)。一方、リヴォニア騎士団長オットーは、サーレマー島を襲ったあと引き揚げてくるリトアニア軍が対岸の陸地にたどりつく前に氷上で捕捉し、殲滅する作戦を立てた。たとえ一部のリトアニア軍がリヴォニア騎士団の追撃を振り切って敗走したとしても、リヴォニアの遠隔地から故郷に逃げ帰る途中で厳冬の寒さと飢えで凍死するか、リヴォニアの住民に虐殺されてしまうだろうとオットーは考えた。
 2月16日、戦闘は凍結したムフ海峡の氷上ではじまった(*6)。敵軍の襲来を知ったリトアニア軍は直ちに氷上の行軍をやめ、前方に先鋒隊を展開すると、その背後に隠れるようにしてすべての橇を並べてバリケードを築いた。敵が突進してくると先鋒隊は素早くバリケード内に逃げ込んだ。勢いよく突撃してきた騎士団軍は、目の前に突然現れた俄か造りにバリケードに阻まれ、狼狽した。この時とばかりに、フットワークのよい軽装備のリトアニアの戦士たちが、バリケードの前で右往左往している重装備の騎士たちに打ちかかった。数時間に及ぶ激しい戦いののち、騎士団軍は壊滅し、騎士団長オットーをはじめとして、騎士52人、兵士600人以上が氷上に倒れて殺害された。
 戦場となったこの場所の対岸にはカルセという町があるところから、この戦いは「カルセの戦い」と呼ばれているが(*7)、アレクサンドル・ネフスキーの「氷上の戦い」にあやかって、「トライデニスの氷上の戦い」とも呼ばれている。

 オットーの戦死によって急遽リヴォニア騎士団を率いることになったアンドレアスもこの年のうちにトライデニスと戦って殺害された(*8)。さらに、アンドレアスのあとを継いで騎士団長となったエルンストも1279年の戦いでトライデニスに大敗して殺害された(*9)。こうして、リヴォニア騎士団の団長は3代続いてトライデニスに殺害された(*10)。

〔蛇足〕
(*1)この戦いは1938年にセルゲイ・エイゼンシュテイン監督で作られた映画「アレクサンドル・ネフスキー」で有名になったが、この映画はナチス・ドイツの脅威を国民に訴えることを意図したスターリンの命令によって制作されたため、1930年代の政治情勢を反映したスターリン的プロパガンダによって史実を曲げた演出がなされ、ロシア軍の勝利が誇張されている。この映画の音楽を担当したセルゲイ・プロコフィエフもスターリンの干渉で納得のゆく仕事ができなかったらしく、この映画のサウンドトラックとは別に、映画と同名のカンタータを残している。しかし、この戦いで正教徒側が勝利したことによって、西欧キリスト教徒の東方拡大政策(正教徒に対する十字軍活動)が阻止され、カトリックと正教の境界線が現在のように固定されたといえる。なお、現在はチュード湖の中をエストニアとロシアの国境が通っているため、チュード湖はロシア側の呼称で、エストニアではペイプス湖と呼ばれている。
(*2)「余談17:ミンダウガスの戴冠」および、「余談18:王殺しと聖人」参照。
(*3)トライデニス(Traidenis:在位1269年〜1282年)はローマの暴君ネロやユダヤのヘロデ大王に喩えられる残虐な暴君であったと伝えられているが、史実から推測すると、彼は戦上手の勇猛果敢な君主であったようだ。しかし、彼が権力の座に就いたときには、ミンダウガス王が暗殺された1263年から続いた内紛の結果、リトアニアは周辺諸勢力によって領土を削られ弱体化していた。
(*4)リヴォニアとは、現在のリトアニアの北隣りに位置するバルト3国のひとつであるラトヴィアと、さらにその北隣りのエストニアの大部分(南部)を含む地域で、当時はドイツ人が支配していた。現在のエストニアの首都タリンを含むフィンランド湾に面する帯状の地域のみがデンマークの植民地となっていた。
(*5)サーレマー島はリガ湾の入口に立ち塞がるように位置する大きな島で、現在はエストニア領だが、当時はリヴォニアに属していて、ドイツ人はエーゼル(Ösel)島と呼んでいた。
(*6)ムフ海峡とは、サーレマー島の東側にあるムフ(Muhu)島と本土との間の海峡(現在のエストニアの地図ではSuur Väinと記されている)の別称で、Moon Soundとも呼ばれる。
(*7)戦場となった実際の場所はムフ海峡に面する現在の港町ヴィルツ(Virtsu)の沖合であったといわれている。カルセ(Karuse)はこのヴィルツから北東へ10kmほど入った内陸にあるが、当時としては、この町が戦場に最も近い町であったのだろう。なお、現在では、ヴィルツから対岸のムフ島にフェリーが運航されている。
(*8)オットー(Otto von Lutterberg)のあとを継いでリヴォニア騎士団長となったアンドレアス(Andreas von Westfalen)は副団長であったが、緊急事態だったので、騎士団総会の正式な選出過程を経ずに団長代行のような形で騎士団を率いて、この年(1270年)の中頃に再び侵攻してきたトライデニスを迎え撃ったが、索敵行動中の休憩時に不意を襲われ、20数名の幹部騎士とともに殺害された。
(*9)1279年、エストニア駐留のデンマーク軍の支援を得たリヴォニア騎士団長エルンスト(Ernst von Rassburg)は、リヴォニアの原住民なども動員して大軍団を編成し、リトアニアに攻め入り、トライデニスの本拠地ケルナヴェ(Kernave)に迫った。しかし、リトアニア領内深く入り込んだ騎士団軍は、トライデニスに背後から攻撃されたため、慌てて撤退したが、ダウガワ川北岸のアイズクラウクレ(Aizkraukle)付近、すなわち、リヴォニア領の南部まで辿りついたとき、トライデニス率いるリトアニア軍に捕捉され、エルンストは、71人の幹部騎士およびデンマーク軍の指揮官とともに、殺害された。
(*10)トライデニスはリヴォニアのドイツ人に強い警戒心をもち、生涯キリスト教を拒否し続け、バルト族の伝統的信仰を守った。その点でリトアニア建国の祖ミンダウガスとは違ったタイプの君主であった。なお、リヴォニア騎士団については「余談51:サウレの戦い」の蛇足(8)参照。
(2016年2月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
武田兄の本文ではなく、蛇足(1)へのコメントで申し訳ありません。
「氷上の戦い」がセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画「アレクサンドル・ネフスキー」で有名になったと知り、学生時代を思い出しました。サイレント映画の傑作と言われる「戦艦ポチョムキン」も1925年のエイゼンシュテイン監督の作品で、映像がもつ影響力を世に知らしめましたが、革命20周年記念のプロパガンダ映画でもあります。彼はリガで生まれたようですが、「アレクサンドル・ネフスキー」をどのような気持ちで監督したのでしょう。活躍した時代と環境に恵まれず、失意の中で1948年に他界されました。
先日、民放で池上彰緊急スペシャルで、15才少女の涙の証言映像で米国世論が大きく変わった様子を観て、改めて映像の力を痛感しました。戦中、戦後で180度異なる歴史の教育を受けた私達は、情報に対して常に疑いを持つ習性がありますが、次の世代の人達が正しい歴史認識を持つことを期待しています。


Posted by 大橋康隆 at 2016年02月16日 21:16
実をいうと、僕は学生時代に「戦艦ポチョムキン」のみでエイゼンシュテインを知ったので、「アレクサンドル・ネフスキー」なる映画があることなど知りませんでしたが、リトアニア史の調査の延長で、ロシア史を調べていて、この話に出会いました。当時、僕もエイゼンシュテインに一時夢中になって、彼の映画のことを書いた本などを読み、共感していたものです。そのとき、「アレクサンドル・ネフスキー」も知ったのかもしれませんが、とにかく、そのときのことは完全に忘れてしまいました。やはり、彼は初期の映画史に残る偉大な監督だった、と。
Posted by 武田充司 at 2016年02月23日 23:09
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