2016年03月16日

リトアニア史余談56:消滅した古都ケルナヴェ/武田 充司

  はじめてケルナヴェを訪れてからもう20年近く経っただろうか。リトアニアの短い秋も終ろうとする寒い日だった。
 車を降りて最初に目に入ったのは煉瓦造りのネオ・ゴシック風の小さな教会だけで、訪れる人もなく静まりかえっていた。ランチを食べるレストランも見当たらない。

 人気のない教会に入り、小さな庭をひと回りしたあと、教会を出てケルナヴェの丘の見える場所に向かった。少し歩くと眺望が開け、眼下にネリス川が静かに流れ、緩やかな谷間を見下ろすように点在する幾つかの丘が一望できた(*1)。その地形から昔はここが戦略的要衝であったことが窺える(*2)。しかし、それと同時に、その起伏に富んだ穏やかな自然に接し、「リトアニアの人たちの心のふるさと」に出会ったような不思議な満足感に浸ることができた。そして、ふと、奈良の明日香村を歩いたときのことを思い出した。

 ケルナヴェの歴史は古く、ネリス川の右岸(北岸)に開けたパヤウタの谷(*3)に人間が住みついたのは紀元前9世紀から8世紀頃といわれ、その後、バルト族の交易の中心地として栄えた(*4)。13世紀の中頃にはリトアニアを統一したミンダウガス王がこの辺りに大規模な城砦集落を築いたらしいのだが、なんと言っても、そのあと、トライデニスがここを本拠地として活躍したことがケルナヴェをリトアニア最古の都として歴史に残したのだ(*5)。
 しかし、1365年のドイツ騎士団の攻撃によって当時のケルナヴェは殆ど消失した。さらに、ヨガイラとヴィタウタスの対立によって起ったリトアニアの内戦時の1390年、再びドイツ騎士団に襲撃され、ケルナヴェは完全に消滅した(*6)。その後、再建されることなく、ネリス川の段丘上に栄えた中世の町並みも、パヤウタの谷の低地地帯にあった古代集落の跡も、すべてがネリス川の運んできた沖積土によって覆われ、埋もれ、忘れ去られてしまった。そして、構築物の跡形もない幾つかの裸の丘だけが残った。

 ケルナヴェが再び人々の関心を引くようになったのは、19世紀にフェリクス・ベルナトヴィチというポーランド人作家がロマンチックな小説「ポヤタ、リズデイキの娘」(*7)をワルシャワで出版したことに始まる。この小説に刺激されたポーランド人の兄弟がケルナヴェの丘の砦跡の発掘調査をしたのだ。いまでは、ケルナヴェは「リトアニアのトロイア」とも呼ばれ、盛んに発掘調査が進められている(*8)。1989年、ケルナヴェの中心をなす5つの丘とパヤウタの谷がリトアニアの国立保存地域に指定され、2004年にはユネスコの世界遺産に指定された。そして、毎年、6月24日の「バプテスマのヨハネの祭日」と7月6日の「ミンダウガス戴冠の日」に合わせて、賑やかな夏の祭りが催され、これを見に海外からも多くの観光客がやって来るようになった(*9)。

〔蛇足〕
(*1)保存地域に指定されているケルナヴェの丘は5つあり、それぞれ、「ミンダウガスの玉座」、「祭壇の丘」、「砦の丘」、「リズデイカの丘」、「キルヴェイキシュキスの丘」と呼ばれているが、「キルヴェイキシュキスの丘」以外の4つの丘は一望できる。「キルヴェイキシュキスの丘」は南東に少し離れた所にあり、丘上に見張り所が置かれていたのであろうという。また、「リズデイカの丘」のリズデイカについては「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」参照。
(*2)ケルナヴェ(Kernave)の特徴ある地形は氷河期の終り頃に形成されたものといわれ、低地地帯を縫って流れるネリス川の周辺には幾つもの小高い丘がある。バルト族はこうした地形を利用して土盛りなどを施し、整形した丘の上に砦を築いた。丘の上の砦については「余談10:丘の上の砦」も参照されたい。
(*3)パヤウタ(Pajauta)とは、リトアニア建国前夜の13世紀初頭の実力者で1219年の「ヴォリニアとの平和条約」の筆頭署名者であるジヴィンブダス(Zivinbudas:「余談50:ヴォリニアとの平和条約」参照)の妻の名である。パヤウタは1220年頃に亡くなったとされているが、これはジヴィンブダスがウクライナのチェルニゴフ遠征の帰路の戦いで戦死した1220年と重なっている。これは偶然ではなく、おそらく、当時のバルト族には妻が夫の死に従う殉死の習慣があったからだといわれている。しかし、パヤウタには別の説明もある。この地に住んでいた神官リズデイカ(Lizdeika:「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」参照)に仕えていた美しい巫女パヤウタに由来するというのだ。また、16世紀のリトアニアの年代記には、11世紀にケルニウス(Kernius)という名のローマ人の末裔がこの地を支配していたことからケルナヴェという地名が生れ、この支配者の娘の名がパヤウタであったという説明もある。
(*4)古代人はパヤウタの谷の低地部に住み着いたが、その後、ヨーロッパの民族大移動期に外敵の侵入によって集落が消失したものと推定されている。さらに、気候変動の影響などによる地下水位上昇もあって低地部分は放棄され、ネリス川の段丘上に新たな居住地域が発達した。
(*5)トライデニス(在位1269年〜1282年)については「余談55:もうひとつの氷上の戦い」参照。
(*6)このときの攻撃の主目標はヴィルニュスであった。なお、のちにイングランド王ヘンリー4世となるヘレフォード公ヘンリー・ボリングブロクが、このとき、ドイツ騎士団に参加してリトアニアで戦っている。
(*7)フェリクス・ベルナトヴィチ(Feliks Bernatowicz:1786年生〜1836年没)のこの作品は見たことも読んだこともないが、この表題から推して、先の蛇足(3)で述べたパヤウタとリズデイカの2人の生涯を空想的に脚色して扱ったものであろう。
(*8)ケルナヴェが「リトアニアのトロイア」と呼ばれるのは、古代から中世に至る様々な物品や遺構が発掘されているからであろうが、その中でも、4世紀から7世紀に造られたという「木材で舗装された水底の秘密の道路」、これをメドグリンダ(medgrinda)という、が発見されたことが特筆される。これは、現在確認されているメドグリンダとしては最も古いものだという。このような秘密の水底舗装道路は、敵に攻撃されたときの防御用として造られたものであろうといわれている。石で舗装された水底道路はクルグリンダ(kulgrinda)と呼ばれ、これもリトアニアで発見されている。これらの水底道路は湖や川の浅瀬を選んで造られ、外敵には何処にあるか分からないので、避難路としてだけでなく奇襲攻撃用にも役立つ。
(*9)ケルナヴェはリトアニアの首都ヴィルニュスの北西約35kmにあり、日帰りで行ける。「バプテスマのヨハネの祭日」(St. John Day=Midsummer’s Day)の祭りは、昔からバルト族の間で行われていた「夏至の祭り」である「ラーサ」(Rasa)がキリスト教信仰と結びついたもので、リトアニアの人々にとっては、「ラーサの祭り」(Rasa festival)である。高緯度地方に住むバルト族にとって夏は大切な季節であった。
(2016年3月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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