2016年05月16日

リトアニア史余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団/武田 充司

  ヨーロッパ近現代史を揺るがせたドイツ帝国はプロイセン王国が発展したものだが、この「プロイセン」という名は、その昔、彼らの先祖であるドイツ騎士団によって征服されて滅亡した西バルト族の一派「プロシャ人」に由来する。
  征服者が被征服者の名を名乗るという、この奇妙な、そして、極めて稀な歴史の源流に遡ってみたい(*1)。

 ポーランドにスラヴ族の国家が初めて成立したのは10世紀後半であったが、それ以前からヴィスワ川下流域から東方のサンビア半島にかけてのバルト海に面する地域に西バルト族の一派であるプロシャ人が居住していた(*2)。ポーランドを建国したピアスト朝の祖ミェシコ1世はキリスト教を導入して国造りを進めたが(*3)、やがて、北東に居住するプロシャ人への布教という名の領土拡大政策によってプロシャ人との摩擦が起った(*4)。プロシャ人の先祖はバルト海からやって来たヴァイキングの略奪から身を守ることによって戦闘的な部族になっていたから、彼らは異民族であるポーランド人の進出に抗して果敢に戦った。しかし、12世紀後半になると、シトー修道会がポーランドに進出して本格的な布教活動を開始した。彼らは、ポーランド北部の都市ヘウムノ(*5)の周辺地域のプロシャ人を屈服させ、キリスト教徒にした。時の教皇インノケンティウス3世もこの布教活動に強い関心を示し、熱心に支援した。

  ところが、1216年に教皇が世を去りホノリウス3世の時代になって暫くすると、プロシャ人の反乱が起り、それまで積み上げてきたシトー会修道士たちの努力がほとんど無に帰してしまった。そこで、彼らは軍事力による布教活動の支援を考え、騎士修道会を設立した。プロシャ人の地域に隣接するマゾフシェのコンラート1世は、この騎士修道会にヴィスワ川下流のドブジン地方を寄進して彼らの活動を支援した(*6)。このことから、この騎士修道会は「ドブジン騎士修道会」とか「ドブジン騎士団」と呼ばれるようになった。

  コンラート公も自ら十字軍を編成してプロシャ人を武力によってキリスト教徒にしようとしたが、成果はあがらなかった。プロシャ人の執拗な抵抗に手を焼いたコンラート公は強力な武力集団であるドイツ騎士団に支援を求めることを決意し、1225年、彼らに招聘状を送った。これは、ハンガリーを追放されたドイツ騎士団にとっては渡りに舟の申し出であった(*7)。彼らは、シトー修道会が既に教化していたヘウムノの地を与えられて入植した(*8)。その翌年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ヘウムノ地方一帯とドイツ騎士団が将来プロシャ人を征服して獲得するであろう土地の全てをドイツ騎士団に与えるという「リミニの金印勅書」を発し、ドイツ騎士団の入植を支援した(*9)。

〔蛇足〕
(*1)プロイセン王国は鉄血宰相ビスマルク(在職1862年〜1890年)の時代に普墺戦争でオーストリアに勝利すると、1867年、自ら盟主となって「北ドイツ連邦」をつくったが、その後、普仏戦争を戦ってパリを占領し、1870年秋、南ドイツ諸邦を説得してドイツ統一を果たした。そして、翌年の1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿においてドイツ皇帝として戴冠し、プロイセン王国は「ドイツ帝国」となった。その1ヶ月余り後の1871年2月28日、フランスが降伏して普仏戦争は終った。このドイツ帝国が第1次世界大戦の主役となったのだから、プロイセン王国がヨーロッパの近現代史を作ったともいえる。
(*2)ヴィスワ川はポーランドの中央を流れてバルト海に注ぐ大河で、首都ワルシャワもこの川の中流にある。しかし、昔は、ヴィスワ川下流以東はバルト族の居住地域であった。サンビア半島は、現在ではポーランドとリトアニアに挟まれたロシア領の飛び地「カリーニングラード州」に含まれているが、昔はドイツ領「東プロイセン」の一部であった。哲学者カントなどで有名なケーニヒスベルクは東プロイセンの首都であったが、現在ではカリーニングラードと呼ばれるロシアの都市となり、昔の面影はない。いずれにせよ、この辺りはプロシャ人の居住地域であった。「余談9:バルト海の琥珀と琥珀の道」、および、「余談39:バルト族はどこから来たのか」参照。
(*3)伝説によれば、9世紀中頃、現在のポーランド北西部のヴェルコポルスカ(Wielkopolska:「大ポーランド」と訳されている)地域に居住していたポラニェ族(スラヴ族の一派)の農夫ピアスト(Piast)がポーランド建国の祖とされている。しかし、実質的な国家の形成は、ピアストの3代あとのミェシコ1世(在位960年頃〜992年)がヴェルコポルスカのポズナン(Poznań)に砦を築き、キリスト教(カトリック)を導入して国造りをしたのが始まりである。したがって、ポズナンはポーランド最初の都である。
(*4)ミェシコ1世の息子ボレスワフ1世(在位992年〜1025年)はボヘミアのプラハ司教アダルベルトを支援してプロシャ人への布教を行ったが、997年春、アダルベルトはプロシャ人に殺害され、バルト族に対する布教活動の最初の犠牲者となった。その後、アダルベルトは殉教者として聖人に列せられたが、この事件が契機となって1000年にグニェズノ(Gniezno)に大司教座が置かれ、ポーランドのカトリック信仰の中心地となった。また、ボレスワフ1世は1008年末にドイツ人修道士ブルーノ・ボニファチウスを起用してリトアニア南部に居住するヨトヴィンギア人(プロシャ人に近いバルト族の一派)への布教を試みたが、ブルーノ・ボニファチウスを含む布教団全員がヨトヴィンギア人に殺害され、失敗に終った。これらについては「余談42:東西キリスト教の出会うところ」の蛇足(4)参照。
(*5)へウムノ(Chełmno)はポズナンの北東約150kmに位置するヴィスワ川下流東岸の都市であるが、昔はドイツ人によってクルム(Kulm)と呼ばれていてプロシャ人の居住地域であった。
(*6)マゾフシェ(Mazowsze)はポーランド北東部の地域で、代々ピアスト家の者によって統治されていて、当時のマゾフシェ公コンラート1世もポーランド王カジミエシ2世の末子だが、政治的には独立性の強い地域であった。
(*7)「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照。
(*8)コンラート1世は、ドブジン騎士団がこの地域に根を下ろすのを嫌って、このようなことをしたのだという説もある。
(*9)当時のドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァ(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)と皇帝フリードリヒ2世は親密な関係にあったのだが、それにしても、これはプロシャ人にとって全く理不尽な話である。しかし、当時はこれが彼らキリスト教徒のやり方であった。リミニ(Rimini)はアドリア海に面した北イタリアの都市の名である。
(2016年5月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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