2016年11月16日

リトアニア史余談64:ヘルクス・マンタスの最後/武田 充司

  ヘルクス・マンタス率いるプロシャ人の大反乱(*1)で窮地に追い込まれたドイツ騎士団を助けようと、ローマ教皇ウルバヌス4世は「プロシャへの十字軍」を呼びかけた。
  それに応えて、ようやく、1265年から66年にかけて、ドイツからブラウンシュヴァイク-リューネブルク公、チューリンゲン方伯、そして、ブランデンブルク辺境伯らの十字軍が相次いでプロシャにやって来た。

 ブランデンブルク辺境伯の十字軍騎士たちは、ヘルクス・マンタスの根拠地ナタンギア地方の西端に砦を築いてブランデンブルクと名づけ(*2)、ナタンギア征服の拠点とした。1267年にはボヘミア王オタカル2世(*3)の十字軍も駆けつけた。この大攻勢によってヘルクス・マンタスは防戦一方に追い込まれ、ナタンギアの砦や集落はことごとく破壊され、逃げ隠れするナタンギア人も捕らえられ殺された。

 そうした状況に追い討ちをかけるように、1272年にマイセン辺境伯率いる十字軍がブランデンブルクの砦に到着した(*4)。圧倒的な十字軍の力を前にして、生き残ったナタンギアの人々は戦意を失い、ドイツ騎士団の保護を求めて次々に投降した。しかし、僅かな手勢とともに森の中に逃げ込んだヘルクス・マンタスは、敵に居場所を突き止められないように移動しながら抵抗を続けた。
 それから1年ほど経った1273年のある日、ヘルクス・マンタスは故郷ナタンギアから遠く離れた森の中に隠れていた。生き残った僅かばかりの部下たちは食糧になる獲物を探しに出払っていた。ひとりテントの中にいたヘルクス・マンタスは、突然、ドイツ騎士団の一味に襲われ、逃げる間もなく捕らえられてしまった(*5)。勝ち誇ったドイツ人たちは、積年の恨みを晴らそうと、ヘルクス・マンタスを木に縛りつけ、なぶり殺しにした。

  この頃には「大プロシャ反乱」の帰趨は既に明らかになっていたが、ヘルクス・マンタスの悲惨な最期は、この壮大な抵抗運動の終りを告げるものとなった。生き残った住民たちは次々に投降してドイツ騎士団の庇護を求めたが、一部の者は住み慣れた自分たちの土地を捨てて近隣のリトアニア領内などに逃げ込んだ(*6)。追い詰められたプロシャ人諸部族の長老たちはドイツ騎士団に忠誠を誓って封臣となった。
そうした中で最後まで戦いを諦めない人々がエルビンクのドイツ騎士団の城を奇襲したが(*7)、これも1274年に鎮圧され、1260年に始まった「大プロシャ反乱」は1275年までには完全に終った。このあと、幾度か小規模な反乱が起ったが、それらはいずれも直ぐに鎮圧され、13世紀末までにはプロシャは完全にドイツ騎士団の植民地となった。

〔蛇足〕
(*1)「余談62:大プロシャ反乱とヘルクス・マンタス」および「余談63:ヘルクス・マンタスのクルム遠征」参照。
(*2)ブランデンブルク(Brandenburg)と呼ばれた砦は、バルト海に通じるポーランド北部の入江ヴィシラヌイ(Zalew Wiśilany)の東岸、現在のロシア領カリーニングラード州のラドゥシュキン(Laduškin)辺りに築かれた。なお、ラドゥシュキンは第2次世界大戦終了まではドイツ名でルードヴィヒスオルト(Ludeigsort)と呼ばれていた。
(*3)ボヘミア王オタカル2世は、1253年にもドイツ騎士団支援のため、この地にやってきたが(「余談60:ケーニヒスベルク」参照)、1267年には、リトアニア征服まで考えてやって来たといわれている。
(*4)マイセン辺境伯は1236年から37年にかけてのドイツ騎士団によるプロシャ人討伐でも、大規模な援軍を送って協力している(「余談59:ドイツ騎士団に征服されたプロシャ人」参照)。
(*5)ヘルクス・マンタスを発見したのはクリストブルク(Christburg)の司令官だといわれている。クリストブルクは、現在のポーランド北部のヴィスワ川下流東岸の都市クフィジン(Kwidzyn)の北東約20kmにあるジェジゴン湖(J. Dzierzgoń)という小さな湖の畔に造られたドイツ騎士団の拠点である。このことから、ヘルクス・マンタスはこの湖からそう遠くない森の中で捕らえられたのだろう。そうだとすると、そこは彼の故郷ナタンギアから150kmほど離れている。
(*6)この当時のリトアニアは、建国の祖ミンダウガス王が1263年に暗殺された後の混乱期を経て、トライデニス(Traidenis:在位1269年〜1282年)の時代になっていた。トライデニスはリトアニア領内に逃亡してきたプロシャ人を保護し、南方のヴォリニアとの境界付近に定住させ、辺境の守備に当たらせた。これはガリチア・ヴォリニアとの紛争に備えるためであった。なお、ミンダウガス王については「余談17:ミンダウガスの戴冠」を、また、トライデニスについては「余談55:もうひとつの氷上の戦い」の蛇足(*3)を参照されたい。
(*7)エルビンク(Elbing)は、先の蛇足(*2)で述べたポーランド北部の入江ヴィシラヌイ(Zalew Wiśilany)に近い位置にある現在のエルブロンク(Elbląg)で、当時はドイツ人によってエルビンクと呼ばれていた。この辺りはプロシャ人の一派ポゲサニア人の居住地域の北西端である。したがって、エルビンクの城を襲ったのはポゲサニア人で、この部族が最後までドイツ騎士団に抵抗した。
(番外)ドイツ騎士団とプロシャ人の戦いの結末は初めから分かっていたと言える。戦いがくり返され長引けば、自分の土地で戦うプロシャ人は人口減少と土地の荒廃で徐々に戦力が低下する。これに対して、ドイツ騎士団は壊滅的な打撃をうけても、ドイツ本国から新たな戦力が補充されるので戦力は落ちない。プロシャ人が最終的に勝利するとすれば、ドイツ本土が疲弊してプロシャのドイツ騎士団を支援できなくなるか、長引く戦いに辟易したドイツ人が入植をあきらめた場合だが、そのどちらの可能性も低かった。当時の西欧は、人口増加によって、政治的にも経済的にも人口の捌け口を求めていた。当時盛んだった聖地奪還十字軍も、こうした余剰人口の捌け口を求めた運動という側面もあった。しかし、気候風土も違う遠隔地への移民は人気がなく、ドイツ北部やボヘミア、ポーランドなどの諸公にとっては、聖地奪還の十字軍よりも近隣の異教徒バルト族に対する十字軍の方が実利があり、ずっと魅力的であった。実際、1095年に始まった第1回十字軍のあと、彼の地につくられた植民地国家(エデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領、そして、エルサレム王国)も長続きしなかった。ポーランドのレシェク白公(在位1202年〜1227年)などは、「パレスチナは遠すぎて旅費が嵩み、まかないきれない。それに、パレスチナでは蜂蜜もビールも手に入らないから・・・」といって、ローマ教皇からの十字軍参加要請を婉曲に断ったという逸話が残っているほどだ。
(2016年11月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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