2016年12月16日

リトアニア史余談65:伝説的英雄となったヘルクス・マンタス/武田 充司

  1957年、その当時リトアニアはソヴィエト連邦の一員で、リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国と呼ばれていたが、そのリトアニアで「ヘルクス・マンタス」というドラマが発表された。
  作者は当時活発な創作活動をしていた著名な劇作家ユオザス・グルシャス(*1)であった。このドラマはたちまち評判になり、この年、ユオザス・グルシャスに幾つかの賞が与えられた。そして、それから15年ほど経った1972年、再びヘルクス・マンタスが取り上げられたが、今度は映画だった。リトアニア映画制作所の監督マリヨナス・ギエドリス(*2)制作のこの映画も大当りで、リトアニア中の映画館で上映された。

 プロシャ人の土地を奪って入植したドイツ騎士団と戦って屈せず、最期は悲惨な死を遂げたヘルクス・マンタス(*3)は、民族の英雄として、すべてのバルト族にとって忘れることのできない人物であるのだが、第二次世界大戦後のソヴィエト社会主義体制下のリトアニアで、ヘルクス・マンタスの物語がこれほど熱烈に歓迎され、ドラマも映画も盛んに上演されたというのは興味深い現象だ。
 第二次世界大戦でヒットラーのドイツと戦って勝利したソヴィエト連邦においては、そのドイツ人の先祖と戦った英雄ヘルクス・マンタスの物語は、バルト族であるリトアニア人だけのものでなく、ソヴィエト連邦という体制にとっても都合のよい話であったのだ。しかし、このドラマ化や映画化が民族意識を高揚する危険な運動としてモスクワから睨まれないように、関係者はそれなりの注意を払ったのだろう。実際、ユオザス・グルシャスのドラマでは、ヘルクス・マンタスはロマンチックなヒローとして描かれているという。

  ところで、大当たりしたヘルクス・マンタスの物語によって、ヘルクス・マンタスは歴史的実像から離れて、ロビンフッドのような伝説的人物になってしまった。しかし、多くの歴史家は、ヘルクス・マンタスを偉大な戦士として称賛しつつも、組織者として、あるいは、政治指導者としての能力には恵まれていなかったと冷静に分析している。

  ヘルクス・マンタスとの比較で思い出されるのが、ラトヴィアのリーヴ人カウポ(*4)である。カウポもまたドイツ人に庇護され、キリスト教徒になったが、彼は最期までドイツ人の側に立って布教のために戦い、敵対する多くの同胞を死に追いやった。そうした両者の違いからか、現代のラトヴィアでもヘルクス・マンタスの方が一般に人気があるらしい。ポーランドでもヘルクス・マンタスの人気は高いようだ(*5)。また、バルト海に面するリトアニア唯一の港湾都市クライペダのメイン・ストリートの名が「ヘルクス・マンタス通り」(*6)というのも、クライペダの歴史を想起すればうなずける(*7)。

〔蛇足〕
(*1)ユオザス・グルシャス(Juozas Grušas:1901年生〜1986年没)は、その名の示すようにリトアニア人で、1924年から1930年までカウナス(Kaunas)のヴィタウタス・マグナス大学(これは現在の校名)で学び、1931年にバリス・スルオガ(Balys Sruoga:1896年生〜1947年没 / 詩人、作家、“Forest of the Gods”の著者)と2人でリトアニア作家協会を設立した。この時代は両大戦間期で、リトアニアは首都ヴィルニュスをポーランドに奪われてはいたものの、カウナスを臨時首都として選挙による大統領を戴く民主的な共和国として独立していた。しかし、彼が40歳になったとき第二次世界大戦が始まり、その後、一時健康を害して休んでいたが、第二次世界大戦終結後の1949年からカウナスを拠点にして執筆活動に復帰し、数多くの作品を残している。その中には英訳された作品もある。彼の活動期はソヴィエト連邦時代なので、当然、それなりの制約があったはずだが、1948年にリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国作家協会(Lithuanian SSR Writers Association)に入っている。1957年に発表された「ヘルクス・マンタス」は、彼が56歳のときの作品であるから、作家として油の乗っている時代のものといえよう。彼の殆どの作品はカウナスの国立劇場で上演された。
(*2)マリヨナス・ギエドリス(Marijonas Giedrys:1933年生〜2011年没)もリトアニア人で、1959年にモスクワの映画専門学校を卒業してリトアニア映画制作所に入っているので、キャリアとしては、ユオザス・グルシャスと違って、完全に戦後派の(すなわち、ソヴィエト連邦体制下の)映画人である。
(*3)ヘルクス・マンタス(Herkus Mantas)については「余談61:キリスト教徒になったヘルクス・マンタス」から「余談64:ヘルクス・マンタスの最期」までの4つの余談参照。
(*4)カウポ(Kaupo / Caupo)については「余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」参照。
(*5)現在のポーランド北部、ロシア領カリーニングラード州との国境に近いヴァルミア地方の小さな町カミンスク(Kamińsk)の小学校にヘルクス・マンタスの名が付いているそうだ。カミンスクはこの地域の中心都市バルトシツェ(Bartoszyce)の西北西約25kmにあるが、この辺りはヘルクス・マンタスの故郷ナタンギアに隣接している。
(*6)クライペダ(Klaipėda)はダーネ川を挟んで南側に旧市街、北側に新市街がある。狭い旧市街に比べてずっと広い新市街の中心を北から南へ、川向こうの旧市街へ向かって走る大通りが「ヘルクス・マンタス通り」(Herkaus Manto gatvė = Herkus Mantas street)である。
(*7)クライペダは、首都ヴィルニュスと工業都市カウナスに次ぐ、リトアニア第3の大都市であるが、この都市とその周辺地域は、どう見てもリトアニアのバルト族固有の領土と思えるのだが、この地域がリトアニア人のものになったのは極めて最近のことで、歴史的には殆どドイツ人が支配していた。1252年にドイツ騎士団の支部リヴォニア騎士団が現在のクライペダに要塞を築いてメメルブルク(Memelburg)と名づけたが、それ以来、第一次世界大戦後の1923年にリトアニア領になるまでドイツ人が支配していた(「余談34:クライペダ問題」および「余談35:武力によるクライペダ地域の併合」参照)。その間、クライペダはドイツ名でメメル(Memel)と呼ばれていた。さらに、第二次世界大戦前夜の1939年3月、ヒットラーの恫喝と最後通牒によって、リトアニア政府はクライペダをナチス・ドイツに明け渡した。このようなクライペダをめぐるリトアニア人の長い複雑な苦闘を知れば、この都市のメイン・ストリートにヘルクス・マンタスの名を付けたリトアニア人の気持ちも分かるというものだ。
 (2016年12月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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