2017年01月16日

リトアニア史余談66:ゲディミナス大公のつくったヴィルニュス/武田 充司

  リトアニアの首都ヴィルニュスを訪れた人なら、大聖堂広場から国会議事堂に向かって東西にのびる「ゲディミノ通り」を歩いて、ウインドー・ショッピングを楽しんだりしただろう。
  このヴィルニュスのメインストリートは、リトアニアを中世ヨーロッパの大国にしたゲディミナス大公(在位1316年〜1341年)に因んで名づけられたものだが(*1)、ゲディミナス大公は、1323年、居城をトラカイからヴィルニュスに移して、そこに大規模な国際都市の建設をはじめた(*2)。現在残るヴィルニュスの旧市街の骨格はこのときにつくられた(*3)。

  北側にネリス川を望む小高い丘の上には城が築かれ、その麓には君主とその家族が起居する宮殿とペルクーナスの神殿が配置されていたが(*4)、神殿の向かい側にはフランシスコ会修道士の館があり、そこには通訳や書記など大公の政務を補佐する人たちが住んでいた(*5)。そして、全体が城壁で囲まれていたが、南側の城壁の中央に城門があり、城門を出ると堅固な木材舗装の大通りが南に向かってのびていた(*6)。その大通りの東側にはロシア人の居住区が、西側にはドイツ人の居住区が配置され、それぞれの地区には正教の教会とカトリックの教会が建てられた(*7)。

  このように、ゲディミナス大公が建設したヴィルニュスには正教の教会もカトリックの教会もあったが、それらはここに出入りするハンザ商人や、ゲディミナス大公が支配していた東方のロシア人正教徒の地域からやってくる人たちのために造られたものだ。一方、ゲディミナス大公自身は、城内に建てられた壮大なペルクーナスの神殿に仕える最高の神官として、祭政一致による統治を目指した。彼はこの神殿を、リトアニア建国の祖であるミンダウガス王が建てた教会の跡地に建設した(*8)。

  しかし、ゲディミナス大公の建てたこの神殿は、リトアニアがキリスト教(カトリック)の国となった1387年に取り壊され、そこに再び教会が建設された。これが現在の大聖堂のはじまりであるが、その後、この教会は幾度も火災に遭って再建されるという歴史をくり返した。ギリシャ神殿を想わせる現在のネオ・クラシック様式の大聖堂は1782年に建設が開始され、19世紀初頭に完成したものである。
  この大聖堂の地下の発掘現場に入れば、教会と神殿の遺跡が重層となっているのを見ることができる。それは、中世リトアニアの君主たちがキリスト教導入の試行錯誤に苦闘した歴史の断片なのだ。

〔蛇足〕
(*1)この大通りはリトアニア語で“Gedimino prospektas”(ゲディミノ・プロスペクタス)というのだが、普通の道路は、たとえば、Pilies gatvė(ピリエス・ガトヴェ)のように、すべてgatvė(=street)と呼ばれる。Prospektasは「大通り」(avenue)と訳せるので、この「ゲディミノ通り」は別格なのだ。なお、Gediminoは、文法的にいえば、Gediminasの属格(所有格)で、「ゲディミナスの」という意味である。Pilies gatvėのPiliesもpilis(=castle)の属格である。ついでに補足すると、「余談65:伝説的英雄となったヘルクス・マンタス」で紹介したクライペダのメインストリート“Herkaus Manto gatvė”のHerkaus Mantoも、Herkus Mantasの属格である。
(*2)ゲディミナス大公がヴィルニュスに都を移す決心をしたときの話は「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」参照。
(*3)ヴィルニュスの旧市街は1994年にユネスコの世界遺産に登録されている。
(*4)丘の上に築かれた城を「上の城」(Upper Castle)と呼び、麓に展開している館を「下の城」(Lower Castle)と呼ぶ。現在、丘の上には「ゲディミナスの塔」と親しみを込めて呼ばれている煉瓦造りの塔があり、塔の上には「黄・緑・赤」のリトアニア国旗が翻っている。ペルクーナスについては「余談41:雷神ペルクーナス」参照。
(*5)ゲディミナス大公時代のリトアニアはバルト族の伝統的信仰を守っていたが、ドイツ騎士団との戦いなどを通して、西欧のカトリック世界との接触が密になり、難しい外交交渉などが頻繁に行われていた。そのため、カトリックの聖職者などの知識人を宮廷の顧問や書記として使っていた。しかし、当時のリトアニアはルーシの正教徒世界との関係が基本的に重要であったから、宮廷ではルテニア語と呼ばれるヴォリニア辺りの古い西スラヴ語が常用されていた。なお、バルト族は固有の記述方式(文字)をもっていなかった。
(*6)この通りは、現在の「ピリエス通り」(Pilies gatvė=Castle Street)から「ディジョイ通り」(Didžozji gatvė=Grand Street)を経て「夜明けの門」(Aušros vartai=Dawn Gate)に至る道とほぼ同じである。
(*7)現在でも「ディジョイ通り」の西側に「ドイツ人通り」(ヴォケチュー通り=Vokiečių gatvė)があり、その南西側にある聖ニコラス教会(Šv. Mikalojaus bažnyčia=St. Nicholas Church)は、このとき建てられたカトリック教会を起源としている。現在でも、そのゴシック様式の建物は殆ど改造されることなく創建当時の面影を残していて、ヴィルニュスでも最古の教会のひとつに数えられている。
(*8)ミンダウガス王は自らキリスト教徒(カトリック)となり、昔から雷神ペルクーナスが祭られていた聖なる場所に立派な教会を建てたが、キリスト教の導入に反対する貴族たちによって暗殺され、その教会も破壊された。ゲディミナス大公はその場所に壮大なペルクーナスの神殿を建てたのだ。「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照。
(番外1)城の東側の谷間にはヴィルニア(Vilnia)という小さな川が流れているが、この清流は昔人工的につくられたもので、本来の川筋は城の南側を流れて現在の鐘楼の辺りで北に向かい、ネリス川に注いでいた。したがって、ゲディミナスの城全体は、城の南東で二股に分かれたヴィルニア川と北のネリス川に取り囲まれていた。しかし、この城壁沿いに流れていた本来のヴィルニア川は埋め立てられて消滅した。このように四方を川で囲まれた城郭は、東側にヴィルニア川の分岐を掘削したことによって実現したのだが、その理由は、この城が北東からの攻撃に弱かったからである。当時、南側は湿地で大規模な軍事行動には適さなかったが、城の北東の丘陵地帯からは、しばしばドイツ騎士団によって攻撃された。そのため、城の北東側の丘には防御用の出城が複数造られていた。現在、その辺りには白い3つの十字架が立っている。
(番外2)バルト族の神殿はキリスト教の教会建築の影響をうけたもので、彼らの伝統的神は神殿など持たない。それは日本の神社が仏教寺院の影響をうけて生まれたのに似ている。
(2017年1月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(1) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
武田兄のリトアニア史余談連載に刺激され、2013年にバルト3国のツアーに参加しました。6月27日午前にヴィルニュス市内観光、午後にトラカイ城を訪れました。今回、ゲディミナス大公が、居城をトラカイからヴィルニュスに移した記述を読んで、懐かしくなり旅行中に撮影した写真を取り出して、家内と共に旅行の思い出を楽しんでいます。
Posted by 大橋康隆 at 2017年01月16日 17:33
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