2017年03月16日

リトアニア史余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い/武田 充司

 ヴォリニアとガリチアは現在のウクライナ西部の歴史的地域名である。この地域は、10世紀末に現代ロシアの源流であるリューリク朝キエフ・ルーシのウラジーミル聖公が支配して以来、リューリク朝の末裔によって統治されていた(*1)。
しかし、1320年代にリトアニアのゲディミナス大公がキエフ遠征の途上ヴォリニアを制圧したことによって彼らの統治は終焉を迎え(*2)、この地域はポーランドとリトアニアの覇権争いの場になった。

 ゲディミナス大公はキエフ遠征の直前にガリチア・ヴォリニア公アンドレイの娘を息子のリュバルタスの嫁に迎えていたから、この縁を利用してリュバルタスをガリチア・ヴォリニア公にしようとした(*3)。ところが、ポーランド王ヴワディスワフ1世(短躯王)は、従兄弟のボレスワフ2世の息子トロイデンが、亡くなったガリチア・ヴォリニア公アンドレイとレフ兄弟の妹マリアと結婚しているのをよいことにして、トロイデン夫妻の15歳の息子ボレスワフを担ぎ出し、ガリチアやヴォリニアの土着の貴族たちの支持を得て、1324年、ボレスワフをガリチア・ヴォリニア公ボレスワフ・イェジ2世として就位させてしまった(*4)。先を越されたゲディミナス大公は、ボレスワフの就位を認める代わりに、将来自分の娘をボレスワフの后にすることを約束させてポーランドと妥協した(*5)。

 1331年、21歳になったボレスワフ・イェジ2世はゲディミナス大公の15歳の娘ガウデウンダを迎えて盛大な結婚式を挙げたのだが、その場所はガリチアやヴォリニアから遠く離れたポーランドのマゾフシェの古都プウォツクであった。しかも、正教徒の君主がカトリックの教会で式を挙げるという奇妙なものであった(*6)。
 こうして一人前の君主となったボレスワフ・イェジ2世は、西欧の進んだ文化や制度を取り入れようとして、ボヘミア、ドイツ、そして祖国ポーランドなどから積極的に移民を受け入れ、それと同時にカトリックの聖職者や知識人も招致した。そればかりか、自らも正教を捨ててカトリックにもどってしまった(*7)。その結果、彼の宮廷ではカトリック教徒の勢力が増し、土着の正教徒スラヴ人貴族の不満と不安が高まった。

 このように性急な西欧化政策が災いして、ボレスラフ・イェジ2世は、1340年4月、地元の正教徒貴族によって毒殺された(*8)。このとき既に父のあとを継いでポーランド王となっていたカジミエシ3世は現地のポーランド人を保護するという口実で出兵し、ボレスラフ・イェジ2世の后エウフェミアをポーランドに連れ戻した。しかし、それから2年も経たない1342年2月5日、エウフェミアは凍てつくヴィスワ川で溺死体となって発見された(*9)。

〔蛇足〕
(*1)ロシアを正教の国として発展させたキエフのウラジーミル聖公(在位978年〜1015年)は、988年頃、ヴォリニア(Volhynia)地方をポーランド人の手から奪って、現在のウクライナの都市ウラジーミル・ヴォリンスキーに城を築いた。これがこの地域発展の始まりである。ウラジーミル・ヴォリンスキーは「ヴォリニアのウラジーミル」という意味だが、当初はウラジーミル聖公の名をとって単に「ウラジーミル」と呼ばれていた。しかし、ずっと後になって北方に同名の都市ができたので、それと区別するためにこう呼ばれるようになった。この都市は1240年代のモンゴル軍の襲撃によって荒廃したが、リューリク朝の末裔であるダニーロ・ロマノヴィチによって再建された。なお、ガリチア(Galicia)地方の中心都市である現在のウクライナのリヴィウ(旧称リヴォフ)は、ダニーロが息子レフ(1世)のために建設して息子の名を付けたのが始まりである。
(*2)ゲディミナス大公のキエフ遠征時に、当時のヴォリニアとガリチアを共同統治していたアンドレイとレフ(2世)が戦いに敗れて亡くなったが、彼らはダニーロの曾孫で、ともに世継ぎがいなかった。その結果、ここでヴォリニアとガリチアを支配していたリューリク朝の末裔の時代は終った。「余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略」参照。
(*3)キエフ遠征直後にゲディミナスは息子リュバルタスをヴォリニア西部のルーツク(Lutsk)の公にしていたが、これもヴォリニア支配の布石であった。それにしても、ゲディミナスは息子の花嫁の実家を攻撃して滅ぼしたのだから、これは冷酷な政略結婚だ。
(*4)ガリチアやヴォリニアは正教の国であったから、このときカトリックであったボレスワフは正教に改宗し、洗礼名をイェジ(Jerzy)とした。イェジはロシア語名のユーリイに対応するポーランド語名である。したがって、ボレスワフ・イェジ2世(Bolesław Jerzy U)をボレスワフ・ユーリイ2世としている文献もある。
(*5)これは密約の類で証拠はないが、この翌年(1325年)、ゲディミナスは娘のアルドナ(Aldona:洗礼名アンナ)をポーランド王ヴワディスワフ1世(短躯王)の息子カジミエシ3世(のちのポーランド王)に嫁がせてポーランドと同盟を結んだ。そして、このときに、息子リュバルタスのガリチア・ヴォリニア公位継承権を放棄した。
(*6)プウォツク(Płock)は現在のポーランドのほぼ中央に位置するヴィスワ河畔の都市で、マゾフシェ地方西部の古都である。ボレスワフ・イェジ2世は、建国以来ポーランドを支配していたピアスト朝のマゾフシェ系門閥に属していて、叔父がプウォツク公であった。それにしても、この結婚式の異常さは驚きである。おそらくこれは、花嫁の父リトアニア大公ゲディミナスとポーランドのマゾフシェ系の人たちが画策したのであろう。しかし、この奇妙な結婚式は、ダニーロ・ロマノヴィチの時代以来、ガリチア・ヴォリニアが東西キリスト教のせめぎ合いの場になっていたこと無縁ではない。このとき、異教徒であるゲディミナス大公の娘ガウデウンダ(Gaudeunda)は正教徒となり、洗礼名エウフェミア(Eufemia)を名乗った。
(*7)ボレスワフ・イェジ2世はカトリックの国ポーランドで生まれ育った人だから、ボヘミアやドイツの進んだカトリック文化を知っていたはずで、当時のヴォリニアやガリチアの正教徒たちが遅れて見えたのだろう。その一方で、彼ら夫婦は子宝に恵まれなかったため、ポーランド王カジミエシ3世を自分たちの後継者にすると言って、正教を捨ててカトリックに回帰したことが地元貴族の不安と反感を助長した。
(*8)このとき盛られた毒があまりに強かったので公の遺体が崩れて分解したと誇張されているが、これは地元貴族の公に対する恨みの強さを物語っている。
(*9)エウフェミアはリトアニア大公ゲディミナスの娘なので、カジミエシ3世の最初の后アルドナとは姉妹であるが、アルドナは既に1339年に亡くなっていた。したがって、カジミエシ3世は亡妻の妹であるエウフェミアを救出してポーランドに連れて来たのだ。
(2017年3月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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