2017年03月16日

路面電車/齋藤 嘉博

  1月の中旬、薮野先生から「東京新聞にこんな記事を載せました」とメールを頂きました。
  薮野先生は80年代の末、武蔵野美術大学に映像学科を立ち上げるにあたって吉田直哉さんや私と一緒に仕事をされた先生。現在二紀会の副理事長や府中市美術館の館長を勤めておられる建築絵画の大御所です。昨年の二紀展にも「カンバスと実景の一体化」とスペイン市街の電車と風景が一体となった大作を出展されました。
  新聞に掲載された記事の概要は「東京、名古屋、京都、マドリードなど訪れた街ごとに、私は市街電車に出会ってきました。都市には市街電車が必要なんです。なぜかというと市街電車は動く建築、動く街並みなんですよね」というもので、未来の都電に楽しい期待を膨らませておられます。
都電ー1(83%).jpg都電ー2(83%).jpg都電ー3(83%).jpg
荒川遊園地に
置かれた6100型
大塚駅付近を走る
都電荒川線
飛鳥山停留所
付近
  この頃は路面電車がすっかり少なくなってしまいました。現在の東京の都電、荒川線は早稲田から三ノ輪橋まで。専用軌道をつかっていたために廃止をまぬかれた東京の唯一の路線です。といっても車と一緒に走るところは飛鳥山の停留所から八王子駅前まで、わずか二、三百メートルほど本郷通りを走る区間。私の小学校のころは乗り物といえば市電。ゲタ電といわれて山手線の内側に住んでいる人にとっては下駄のように気軽に使うことができました。その頃は7銭で乗り換えは無料。早朝割引が5銭。大正4年(1915年)にはもう品川から浅草(1番)、新宿から浅草(3番)、大塚から厩橋(5番)など11路線が走っていたというから驚きです。

  私の家は牛込にあって小石川の小学校まで13番の電車で通いました。孟母三遷とか、ほどなく小石川に引越しましたがそれでも16番、17番の市電を使っていました。13番の市電は新宿の角筈(その頃は今ゴールデン横丁と呼ばれているところが終点)で、そこからからしばらく専用軌道を走り、途中で改正道路と呼ばれていた明治通りを横切り、東大久保で一般道路に合流します。若松町から坂を下りて柳町、上がって山伏町と走り万世橋まで。柳町への下り上りの坂はかなり急で、電車は坂の上でいったんブレーキをかけて停車。その後ゆっくりと坂を下りていました。今行ってみるとこの坂はなんのことはない緩やかな坂で一時停車なんて大げさなことをするほどのものではなかったと思うのですが、やはり当時のブレーキは安全性の低いものだったのでしょう。
  車社会の到来で都電の廃止となるのですが、昭和34年、東京都の交通局は「路面電車は都民公共の機関であり、その廃止は都民の日常生活に重大な影響をあたえることになりますので、軽率な取り扱いはゆるされません」と廃止反対の書面を公表しているのです。しかし世の流れには抗することができずに、昭和43年9月に荒川線以外の全線が廃止されました。今は市電に代わって地下鉄がその役割を果たしています。13番の市電の道下には都営地下鉄の大江戸線、17番にはこの道に沿って丸の内線、赤門の前の19番の道には都営三田線など。地下鉄路線には近郊の電車が接続、乗り入れて長距離の移動は大変便利になりました。私の家から横浜中華街まで乗り換え一つで行くことができるのですから。しかし利便性ということから見るとやはり下駄の路面電車のほうに軍配が上がります。
  市電は家から出てすぐ乗ることができるのですが、近頃地下鉄の駅の深いこと。一番深いのは大江戸線六本木駅のマイナス42.3mだそうです*。エスカレーターを使ったりエレベーターを使ったり。その昔ロンドンで地下鉄に乗った時にエレベーターがあったのにおどろきましたが。
  さらに交通網、ネットワークに肝心なものはNode、交差点、つまり乗り換えです。路面電車はものの10mほどを歩けば次の電車への停留時に行くことができますが、この頃の地下鉄駅の乗り換え通路の長いこと。永田町駅で半蔵門線から南北線への乗り換えは大変!38mの長いエスカレーター*を上がって200mほど歩いてまた階段を下りるのですから。そのような乗り換えがあちこちに。
  いや市電に欠点がないわけではありません。電車に電気を供給するための架線。これが空を覆って街をうっとうしいものにしています。でももうすぐ電池で走る路面電車が出来てその悩みを解決してくれるでしょう。たしかに薮野先生がコラムに書かれたように路面電車は絵になるのですネ。列車はワニか蛇のようですし自動車は蟻の群れといったらいいでしょうか。そこに行くと路面電車は街のなかをすいすいと泳ぐ水澄まし。ちょっと優雅で親しみがあります。
  路面電車の便利さのゆえにまだ線路の残っている都市が沢山あります。金沢、松山、広島などなど。広島は市街電車の気分で乗っていますといつの間にか郊外にでて厳島まで運んでくれます。東京に近いところでは江ノ電。荒川線同様ほとんどが専用軌道ですが、江の島駅から腰越駅までの間商店街を買い物の人たちと一緒の道を走ります。薮野先生は上記コラムの結びに未来の市電について「乗っていると愉快になる電車、幸福になる電車、高い高層ビルの間を結ぶ電車など将来は必要になるかもしれません」と将来への夢を語っておられます。

  という路面電車の便利さから海外の国でもまだまだ自動車に負けんようにと路面電車が走っています。サンフランシスコのケーブルカーは有名ですし、私が好きなのはウィーンのトラムです。これらのお話はまた稿を改めることにいたしましょう。

  *出展 竹内正浩著 地図と親しむ東京歴史散歩、地下篇
posted by でんきけい at 00:00| Comment(5) | 斎藤さんのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 ヨーロッパの都市を訪れると路面電車が走る素敵な光景に出合うことがありますが、あれを見ると路面電車の文化の大切さに気付かされます。
 僕の子供のころは、現在の都電荒川線は「王子電車」と呼ばれていましたが、「荒川遊園地」まで、少し遠かったけれども、歩いて行けたので、王子電車の走る光景は懐かしい思い出です。
 お小遣いは駄菓子を買うのに使ってしまうので、王子電車に乗ることはめったになかったのですが、たまには「小台駅」から「荒川遊園地」までのひと停留場間を乗って、電車の運転席の真後ろにしがみつき、あのカチャカチャとノッチを切り替える運転手の手さばきと音を楽しんだものです。
 荒川遊園地は僕らが生まれる前からある古い遊園地で、僕の子供のころには、何もない原っぱのような所にありましたが、今では住宅密集地の中にあって、小さな子供たち専用(?)の公営遊園地になっているようです。
 
Posted by 武田充司 at 2017年03月16日 12:14
 路面電車のお話を懐かしく拝見しました。私も電気科を卒業して、NEC玉川製造所に勤務した最初の6年間は、路面電車のお世話になりました。母が日本生命新橋支部、妹が日比谷の外資系商社に勤めていたので、最初は市ヶ谷の駅近くに間借りして、市ヶ谷から渋谷駅経由で武蔵小杉に通いました。ある日、路面電車の定期券を落としたのですが、幸いにも渋谷駅から連絡があり、手元に戻りました。早速、届けて下さった青山学院大学のK教授を訪れて、お礼を申し上げました。このことをNECで最初にフルブライト留学をした同じ職場のS先輩に話したら「K教授は有名な方だ。良い方に届けてもらって良かったね。」と言われました。
 その後、世田谷の宮ノ坂駅の近くに住み、玉川線で渋谷駅に出て、武蔵小杉に通いました。ある日、残業で暗くなっていた頃、渋谷駅から玉川線に乗ると、酔った学生数人が、少し離れた座席の初老の方に絡んでいました。暫く我慢しておられたが、突然立ち上がり一人を座席に座らせ鉄拳を数発食らわせました。仲間の学生達がいきり立ち、決着をつけるため池尻大橋駅で降りろと喚きました。小柄な初老の方は悠然と降りましたが、多分数人とも叩きのめされたと思います。当時は戦地から帰還した筋金入りの方々が健在でした。玉川線も当時は渋谷から三軒茶屋まで路面電車でした。

Posted by 大橋康隆 at 2017年03月16日 19:21
13番都電のことが出ているのを見て大変懐かしく思い、久しぶりにコメントする気になりました。
前にも書きましたが(2009/2/23)親戚が新宿区富久町に住んでいたので、受験の1年前に初めて上京し、東京をあちこち動き回って大都会の雰囲気を体験しました。親戚に同い年の男の子がいたので最初の日だけは彼に案内してもらい、翌日からは単独行動。そのとき活用したのが13番都電(最寄り駅は抜け弁天前)で、乗車するとまず車内中央付近に掲示してある案内地図を見に行って次にどこで何番の都電に乗り換えるべきかを確認することにしていました。神田や都心も結構歩き回った記憶があります。
事前準備のおかげで本番の年は気持ちのゆとりを持って受験に望むことができました。本郷へは松住町(お茶の水と万世橋の間)で13番から19番に乗り換え、正門前で下車という単純なコースでした。
駒場に通っている期間のうち1年半くらいは親戚に居候していたので、13番都電には随分お世話になったことになります。

それから、柳町交差点で思い出したのは一時大気汚染(特に車の排気ガス)で有名になったことです。あの場所は窪地になっているので、風の弱い時などは汚染された大気(特に排気ガス)が澱んでいたのでしょう。Wikipediaにも「牛込柳町鉛中毒事件」として載っています。
Posted by 大曲 恒雄 at 2017年03月17日 10:46
電車って頂いたコメントのようになぜか郷愁をそそるものなのですネ
武田様
この辺りにお住まいだったよし。そう王子電車と言っていました。私もこの稿をつくるために久しぶりに荒川遊園地に行きました。日曜日で子供連れの家族の方々でいっぱいの盛況でした。昔は観覧車なんてなかったかと思うのですが。乗ってみたかったのですが、ながーい行列で断念しました。

大橋様
玉電も懐かしい電車です。ゲタ電ではなくてジャリ電でした。戦前は下馬、上馬、駒場あたり軍の施設が並んでいましたっけ。

大曲様
抜け弁天は私の生まれたところ。13番が今でも目に浮かんできます。一度ご一緒に弁天参りをいたしましょうか。早くお元気になってこのブログで活躍していただきたく。
Posted by サイトウ at 2017年03月17日 12:59
斉藤さんの路面電車のお話、大変懐かしく拝見しました。私も通学では金沢と東京の電車にすっかりお世話になりました。
 処で私が1957年に居た米国のピッツバーグ市ですが、大変な路面電車大国(大都市?)で、東部ペンシルベニア州の中都市ですがその電車の路線長は最盛期には606miles(975Km)もあり、米国ではシカゴに次いで2位でした。どうしてこの様に凄い事になったか今でも感心しています。
 それから斉藤さんがウイーンのトラムをお気に入りのご様子、同感です。私もこのリンクを申し訳ないですが二回りも乗って町の景色を楽しみました。
 また記事を頂けるご様子で期待して居ます。
Posted by 小林 凱 at 2017年03月27日 16:30
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