2017年04月16日

リトアニア史余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転/武田 充司

  ドイツ騎士団がリトアニア侵攻を本格化させたのは14世紀に入ってからだが、その重要な転機となったのは1309年に彼らの本部がポーランド北部のマリエンブルク(*1)に移転して来たことであった。
  そして、そのときから100年余に及ぶリトアニアとドイツ騎士団との死闘がくり広げられることになる。

 西欧キリスト教徒が聖地に打ち立てた十字軍国家エルサレム王国の最後の拠点アッコ(*2)が1291年5月末に陥落した。そして、その数ヵ月後にエルサレム王国が完全に消滅すると、ドイツ騎士団はヴェネチアに引き上げ、ひと先ずそこに本部を置いた(*3)。
  ところが、1303年に開かれた騎士団総会で、本部から軽視され不満の鬱積していたプロシャやリヴォニアの騎士たちが、いまだに聖地奪還を夢見る本部騎士たちを批判して騎士団総長の辞任を迫った(*4)。その結果、ジークフリートが新総長に選出されたが、辞任に追い込まれた前総長派の騎士たちの存在でドイツ騎士団は分裂状態に陥った(*5)。その上、ドイツ騎士団にとってヴェネチアは中途半端な場所で、決して居心地のよい所ではなかった。そこで、この膠着状態を打開しようと、騎士団総長ジークフリートは、1309年9月、騎士団本部をマリエンブルクに移すことを決断した。当時、マリエンブルクは既にプロシャのドイツ騎士団本部として要塞化されていた。
 ドイツ騎士団を何とかまとめてマリエンブルクに結集させたジークフリートであったが、新天地で騎士団の結束を固める間もなく1311年に亡くなった。後継の総長として選出されたのはトリーア出身の46歳という比較的若いカールであった。

  この頃、リヴォニアではドイツ騎士団の支部的存在であったリヴォニア騎士団とリガの大司教とが争っていたが、それがアヴィニョンの教皇クレメンス5世の耳に入り、1312年、リヴォニア騎士団はリガ市に入ることを禁じられ、1313年にはドイツ騎士団も破門されるという事態になった(*6)。その上、フランスでは既にテンプル騎士団が国王フィリップ4世の命によって解体されていたから、新総長カールは危機感を募らせた(*7)。

 しかし、ドイツ騎士団にとって幸いだったのは、新総長カールが雄弁で交渉に長けた有能な人物であったことだった(*8)。彼はフランス語に堪能であったから、アヴィニョンの教皇クレメンス5世や教皇の側近たちに直接働きかけ、ドイツ騎士団を存亡の危機から救い出し、騎士団内部の改革を強行した。
  こうしてプロシャに結集して体制を整えたドイツ騎士団は、聖地奪還という本来の目的を放棄して、本格的なリトアニア侵攻を開始することになる。それは、リトアニアにとって新たな苦闘の100年の幕開けとなった。

〔蛇足〕
(*1)マリエンブルクは、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)の旧名で、当時のドイツ人はこう呼んでいた。ドイツ騎士団の正式名称は「エルサレムのドイツ人の聖マリア病院修道会」であるため、この名に因んで「マリアの城」(Marienburg)と名づけられた。
(*2)アッコ(Akko)は現在のイスラエル国最北端の都市で、地中海に面した港町として、また、交通の要衝として重要な拠点であった。
(*3)ヴェネチアは十字軍が海路で聖地に向かうときの出航地となっていたから、聖地に足場を失ったドイツ騎士団は、ひとまず、ヴェネチアに引き揚げてきた。
(*4)辞任に追い込まれた騎士団総長ゴットフリート(在位1297年〜1303年)の前任者コンラート(在位1291年〜1297年)は、十字軍国家エルサレム王国が消滅した年に総長に就任したが、騎士団総長になる前にリヴォニアとプロシャの両騎士団長を同時にひとりで務めて苦労した経験があった。そのとき彼は、聖地の状況悪化から推し量って、近い将来、ドイツ騎士団にとってこれら両地域が重要になることを予感していた。そのため、コンラート総長はプロシャやリヴォニアの現場を大切にしたが、ゴットフリート総長になってから風通しが悪くなり、前任者との比較で、ゴットフリートに対するプロシャやリヴォニアの騎士たちの不満が鬱積する結果となった。また、このときの騎士団総会がプロシャのエルビング(Elbing)で開かれたことも、現地の騎士たちを勢いづかせた。エルビングは、現在のポーランド北部の都市エルブロンク(Elbąg)の旧名(ドイツ人による呼称)で、マリエンブルクの北東約30kmに位置している。
(*5)1303年に辞任したゴットフリートは1311年に亡くなったが、その時まで新総長ジークフリート(在位1303年〜1311年)は騎士団内の不統一に悩まされた。
(*6)現在のラトヴィアの首都リガ(Riga)に大司教座が置かれたのは1253年だが、それ以後リガはハンザ同盟都市として益々発展した。その結果、力をつけたリガの裕福な商人たちと、彼らの番犬のような役割を果たしていたリヴォニア騎士団との利害対立が先鋭化した。そこにリガの大司教がリガ市民の側について争いに介入したため、昔からあったリガの神権とリヴォニア騎士団の俗権との対立が新たな形で蒸し返された。新任のリガ大司教フリードリヒが1305年にリガに着任しようとしたとき、リヴォニア騎士団は武力でそれを阻止した。これが直接の原因となって、フリードリヒ大司教が騎士団の数々の暴挙をアヴィニョンの教皇に直訴した。この訴えをうけ、教皇は勅書を発してドイツ騎士団の罪状調査を命じた。その結果、騎士団員の数々の悪行が明らかとなり、教皇はリヴィニア騎士団を一時的にリガ市から追放し、そのあと、リヴォニア騎士団を下部組織として統制していたドイツ騎士団を破門した。
(*7)エルサレム王国消滅後、テンプル騎士団はキプロス島に名目上の本部を移したが、フランス本土に莫大な財産があり、欧州各地に寄進によって得た多数の領地(不動産)を所有していた。このようなテンプル騎士団はフランス王国内に根を張る超国家(国家の中の国家)のような不気味な存在であった。特に、当時のヨーロッパ諸王国などには見られない近代的な組織と統制力をもった武力集団としてのテンプル騎士団は、フランス王にとって脅威であった。こうしたことから、権力欲の強いフィリップ4世がアヴィニョンの教皇クレメンス5世を動かしてテンプル騎士団の解体を急いだのだと言われている。しかし、テンプル騎士団の悲惨な最期には謎が多い。なお、同騎士団の正式な廃絶は1312年3月のヴィエンヌ公会議で決まった。
(*8)ドイツ騎士団総長カール(Karl von Trier:在位1311年〜1324年)は、その名の示すように、フランスとの国境に近いトリーア(Trier)の出身だったからフランス語に堪能であった。彼はドイツ騎士団の改革を実施した功労者であったが、大方の騎士団員には不評で、一時、故郷のトリーアに帰ってしまったことさえあった。
 (2017年4月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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