2017年05月16日

リトアニア史余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団/武田 充司

  リトアニアを南東から西に向かって流れる大河ニェムナスは南方から侵攻してくるドイツ騎士団に対する天然の防衛線であった。
  ニェムナス川(*1)の源流は現在のベラルーシ領内にあるが、リトアニアの南端から北に向かって流れ、リトアニア第2の都市カウナス(*2)に達すると流れは西に向きを変え、そこから210kmほど流れてバルト海に注いでいる。現在は、カウナスから100kmほど下流にある北岸の都市スマリニンカイ(*3)から河口までの残り約110kmは、この川がリトアニアとロシア領の飛び地カリーニングラード州との国境になっている。

  現在、スマリニンカイから40kmほど下流の南岸にネマン(*4)というロシアの都市があるが、1289年、ドイツ騎士団がそこに城を築いてリトアニア侵攻の拠点としたのがこの都市の始まりで、昔はラグニット(*5)と呼ばれていた。
  ラグニットに城を築いた翌年、ドイツ騎士団はそこから50kmほど上流のニェムナス川北岸にあったバルト族の砦(*6)を襲撃した。このとき、砦を守っていた首領スルミナスの奮闘によってドイツ騎士団軍は撃退されたが、バルト族は甚大な損害を蒙り、生き残った者わずか12人という惨状であった。この悲惨な経験から首領スルミナスはその翌年この砦を放棄し、もっと上流の守り易い場所に新たな砦を築いた。この砦がその後のリトアニア史に幾度も登場するヴェリュオナの砦(*7)の始まりである。

  1313年4月、ケーニヒスベルクに結集したドイツ騎士団の大船団が騎士団総長カール(*8)に率いられて海路ラグニットに向かったが、それとは別にプロシャから陸路でラグニットに向かう別働隊があった。一旦、ラグニットに結集して体勢を整えた騎士団軍は、そこからニェムナス川南岸沿いに数10km進軍して北岸に渡り、そこに砦を築いて前線基地とした(*9)。

  ドイツ騎士団の進出を知ったリトアニア大公ヴィテニス(*10)は急遽100艘ほどの小船に奇襲部隊を分乗させ、密かにニェムナス川を下り、ドイツ騎士団の主力が前線基地に移動して防禦が手薄になっていたラグニットを襲った。先ず、停泊していた騎士団軍の大型船に奇襲攻撃をかけたが(*11)、あまりに大きな船体に阻まれ、船上に乗り移ることができず手間取っているうちに、船内の守備隊に気づかれ、高い船上から弓矢による強烈な反撃に遭ってしまった(*12)。しかし、奇襲部隊が苦戦している最中に、ヴィテニスが陸路でラグニットに向かわせていた別働隊が現場に到着したため、戦況は逆転した(*13)。こうして、ドイツ騎士団による最初の本格的侵攻を阻んだリトアニア軍であったが、これで沈黙するようなドイツ騎士団ではなかった(*14)。

〔蛇足〕
(*1)ニェムナス(Nemunas)川はリトアニアでの呼び名で、リトアニア国外ではネマン(Neman)、ニーメン(Niemen)、メメル(Memel)などと呼ばれている。
(*2)カウナス(Kaunas)は両大戦間期にリトアニアの臨時首都となっていた都市で、第2次世界大戦直前に杉原千畝がここに短期間駐在したことでも知られている。
(*3)スマリニンカイ(Smalininkai)は、歴史的にドイツ騎士団とリトアニアが争った境界に位置し、1422年の「メウノ(Mełno)の条約」でドイツ騎士団領となって以来ずっとドイツ人が支配していた。そのため、以前はシュマレニンケン(Schmalleningken)と呼ばれていた。
(*4)ネマン(Neman)という名は、先に述べたように、ニェムナス川が外国ではネマン川と呼ばれていたことに由来する。
(*5)ラグニット(Ragnit)はリトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ぶ。ここはニェムナス川南岸の崖の上という立地条件に恵まれていたので、バルト族の一派でプロシャ人系のスカルヴィア人(Skalviai)が砦を築いていたが、1277年頃にドイツ騎士団によって征服され、それ以後、ドイツ騎士団の基地となっていた。
(*6)この砦は現在のリトアニアの都市ユルバルカス(Jurbarkas)辺りにあった。
(*7)ヴェリュオナ(Veliuona)の砦は、当初、ユニゲダ(Junigeda)の砦と呼ばれていたが、その後、ニェムナス川を遡ってリトアニアの中心部に侵攻しようとするドイツ騎士団に対する最前線の防禦拠点となった。
(*8)ドイツ騎士団総長カール(Karl von Trier)については「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照。
(*9)この砦はクリストメメル(Christmemel)と命名されたが、これは彼らがニェムナス川をメメル川と呼んでいたことによる。この砦がニェムナス川の北岸に築かれたことが重要な戦略的意味をもっていた。
(*10)ヴィテニス(Vytenis:在位1295年頃〜1316年)は勇猛な武将であったばかりでなく、政治的能力にも恵まれた人物であった。リトアニア史では、彼のあとを継いだ彼の弟ゲディミナス大公があまりにも有名になったため、ヴィテニスは注目されないが、ゲディミナス大公の成功の基礎を築いた人物として評価されるべきだろう。
(*11)このとき、リトアニア軍の多数の小船がドイツ騎士団の急造の砦クリストメメルの前を通って気付かれたはずだが、流れに乗って全力で川を下るリトアニア軍の小船は、ドイツ人が下流のラグニットに敵軍の奇襲を知らせる警報が届く前に、ラグニットに到着していた。
(*12)リトアニアのバルト族は森の民であって海洋民族ではないから、見たこともない巨大なドイツの木造船に驚き、船上から強力な弓で矢を射てくる少数のドイツ人守備隊に蹴散らされた。
(*13)陸路による別働隊は、クリストメメルの騎士団軍に気付かれないように、森の中を通ってラグニットに急行したのであろう。
(*14)ラグニットのドイツ騎士団の城は南岸の崖の上にあったから、防禦が手薄になっていたとしても城を落すことは困難で、水上に停泊していた船団に損害を与えることが精一杯であったはずだ。それでも、船団が襲われたことによって、プロシャから遠征してきた騎士団軍は食糧や武器の蓄えに不安を感じ、ひとまず撤退していった。結局、この戦いでリトアニア側も決定的勝利は得られず、両者傷み分けとでもいうべき結果に終った。そして、ドイツ騎士団は、この戦いの教訓から、これ以後、大型船を連ねて遠征してくることはなく、もっと機動的で効率的な戦術に転換した。
 (2017年5月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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