2017年07月16日

リトアニア史余談72:ゲディミナス大公と教皇ヨハネス22世/武田 充司

 1316年、アヴィニョンでは高齢だが活力溢れる教皇ヨハネス22世が即位したが、その年、ゲディミナスもリトアニア大公となった。
 ヨハネス22世は教皇となった翌年の2月ゲディミナスに書簡を送り、その中で「神の恩寵への扉はあなたにも開かれている」という表現で自らの思いを伝え、リトアニアに対する友好的な接触を試みたが、その背景には、リガの大司教とリヴォニア騎士団の対立抗争を苦慮する新教皇の思惑が見え隠れしていた(*1)。実際、ヨハネス22世は、その翌年、すなわち、1318年にリヴォニア騎士団を統括しているドイツ騎士団を破門したが、これは前教皇クレメンス5世の1313年の破門通告の再確認でもあった(*2)。

 1322年、リガの大司教フリードリヒはドイツ騎士団の新たな罪状を集めてアヴィニョンの教皇に再び直訴したが(*3)、このとき、ゲディミナスもフリードリヒ大司教の仲介で教皇に書簡を送り、ドイツ騎士団のリトアニア人に対する不当な行為を非難し、彼らのそうした行為こそがリトアニアのキリスト教受容を妨げていると訴えた(*4)。
 その翌年(1323年)1月、ゲディミナスは西欧から移民をうけ入れる計画を公表し、移民招致の書簡を西欧各地に送った(*5)。そして、移住者に対してはリガの都市法を適用してその身分財産を保護するだけでなく、定住に必要な土地を与え、10年間は税を免除することも約束した。ゲディミナスは職人や商人、農民などの移住者を求めただけでなく、聖職者や兵士もうけ入れようとした。彼は、リトアニアがキリスト教をうけ入れる用意があり、移住者が毎日の礼拝や宗教行事に困らないよう、新たに建設した首都ヴィルニュスにはドミニコ会とフランシスコ会の教会があり、ナウガルドゥカス(*6)にもフランシスコ会の教会があると説明し、さらに、首都ヴィルニュスに教皇特使を招きたいと宣言した(*7)。

 ところが、ドイツ騎士団も西欧から様々な職業の移住者をうけ入れようと努力していたから、ゲディミナスが始めた活発な移住者募集キャンペーンは彼らの警戒心と対抗意識を刺激した。ゲディミナスが西欧各地に発した招待状は途中で密かにドイツ騎士団関係者によって奪われ、封印を破って届けられるようになった(*8)。こうした妨害工作の裏をかくために、ゲディミナスはリガ市の協力を得て、市の執政官の手を借りて招待状を再配布させ、その中で、ドイツ騎士団の不法な妨害工作の実態を明らかにして西欧の良識に訴えた。

 ゲディミナスは教皇に宛てた書簡の中でリトアニアの国境の画定と認知を求めていた。これが実現すれば、ドイツ騎士団との長年に亘る抗争に終止符が打たれ、この地域に平和が齎されることになるのだが、ゲディミナスの要請に応えて教皇特使がヴィルニュスにやってくるのは未だ先のことであった(*9)。その間にもドイツ騎士団との熾烈な争いは続いた。

〔蛇足〕
(*1)リガの大司教とリヴォニア騎士団の対立抗争については「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照。この対立抗争を調停しようとしていたヨハネス22世はリガ市民とリガの大司教を支援しているリトアニアの利用価値を認識していたから、単にリトアニアをカトリックの国にするという純粋に宗教的な目的以外のものが教皇の胸のうちにあったようだ。
(*2)クレメンス5世による1313年の破門通告については「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照。なお、クレメンス5世は初代のアヴィニョン教皇で、ヨハネス22世(在位1316年〜1334年)が2代目の教皇である。
(*3)リガの大司教フリードリヒ(Friedrich von Pernstein)がドイツ騎士団の暴挙を暴いて教皇クレメンス5世に直訴したことは「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」の蛇足(6)で述べたが、1322年の訴えは、クレメンス5世のあとを継いだ2代目のアヴィニョン教皇ヨハネス22世にも改めて同様の訴えをしたということである。
(*4)ゲディミナスは幼い時からの経験で、西欧世界では教皇が最高の権力者であり、特に、ドイツ騎士団に対しては教皇の権威が絶対的なものであることを理解していたから(この認識は当時既に時代遅れになってはいたが)、ドイツ騎士団のリトアニアに対する際限ない攻撃を教皇の権威を借りて外交的に終らせようとした。そして、好都合なことに、リガの大司教とリトアニアとは、共通の敵リヴォニア騎士団(ドイツ騎士団の支部的存在)を介して協力関係にあったから、フリードリヒ大司教に追従してリトアニアに対するドイツ騎士団の非人道的な行為の数々を教皇に訴えた。
(*5)移住者を募る招待状はリューベック、ブレーメン、マグデブルク、ケルンなど北ドイツのハンザ同盟都市を中心に、遠くはローマにまで送られた。さらに、その招待状は各地で複製されて流布したため、「ゲディミナスの招待状」は瞬く間に西欧キリスト教世界に知れ渡ったという。
(*6)ナウガルドゥカス(Naugardukas)は現在のベラルーシの都市ノヴォグルドク(Novogrudok)のリトアニア語名で、ベラルーシの首都ミンスクの西南西約80kmにあり、当時は、この辺り一帯はすべてリトアニアのバルト族の居住地域であった。ここの教会は1314年にドイツ騎士団の襲撃によって焼失したが、その後、ゲディミナスによって再建された。
(*7)ゲディミナスが「リトアニアはキリスト教をうけ入れる用意があり・・・」と言っているのは、リトアニア国内で西欧キリスト教徒が生活することを認めるが、彼らがリトアニア人に対して布教活動をするのを認めるとは明言していない。ゲディミナスの外交的言動は微妙で、注意深く裏を読む必要がある。
(*8)西欧からの移住者を募る努力は、絶え間なく戦争をしているドイツ騎士団とリトアニアの両方にとって、経済力や戦力、そして基本的な人口の維持に必要であったが、1310年代後半にヨーロッパを襲った異常気象による大飢饉と、それによる人口減少との関係もあるだろう。なお、封印を破られた書簡は信頼性を失うので、これによってゲディミナスの招待状は効力を失った。
(*9)アヴィニョンの教皇ヨハネス22世はリトアニアに特使を派遣することを約束したのだが、様々な理由からその派遣は遅れ、約束から1年半近く経った1324年秋にようやく実現した。
(番外)ゲディミナスは移民うけ入れの招待状をシトー会系の人々には送っていない。その理由は、リガのダウガワ川河口にあったデュナミュンデのシトー会修道院を1305年にシトー会がリヴォニア騎士団に売却したため、リヴォニア騎士団がこれを要塞化してリガ港を封鎖し、リガの大司教フリードリヒの着任を妨害したからだ。ゲディミナスはこうした過去の出来事や歴史をよく調べて外交政策に反映させていた。ゲディミナスの宮廷ではフランシスコ会の修道士が書記を務め、ドミニコ会の修道士が宗教問題の顧問として仕えていたから、外交文書なども彼らがゲディミナスの意を戴して作成していたようだ。
 (2017年7月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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