2017年09月16日

リトアニア史余談74:シニ・ヴォディ川の戦い/武田 充司

  ユジヌイ・ブーク川はウクライナ東部を北から南東へ流れてオデッサの東方で黒海に注いでいる。ウクライナの首都キエフの南方260kmほどのところにユジヌイ・ブーク河畔の都市ペルヴォマイシクがあるが、その辺りでシニュカ川という支流が北からユジヌイ・ブーク川に合流している。
  シニュカ川をその合流地点から少し遡ったところで、むかし大きな戦いがあった。土地の人はこの川を「シニ・ヴォディ」と呼んでいたので、ウクライナの人たちはこの戦いを「シニ・ヴォディ川の戦い」と呼んでいる。

  この戦いは、リトアニア大公アルギルダス(*1)率いる、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナの連合軍(*2)と、キプチャク汗国の3人の武将、クグルグ・ベイ、ハジ・ベイ、ドミートリイが率いるタタールの大軍との戦いであった。アルギルダス大公はこの戦いで決定的な勝利をおさめ、キエフの南方に広がるユジヌイ・ブーク川とドニエプル川に挟まれた広大な地域からキプチャク汗国の勢力を駆逐した(*3)。

  成吉思汗の孫バトゥが打ち立てたキプチャク汗国がその強大な軍事力を背景にルーシの諸公を支配した「タタールのくびき」は、このとき初めて綻びを見せた(*4)。そして、この戦いの勝利が、その後の「ヴォジャ川の戦い」とそれに続く「クリコヴォの戦い」の勝利への突破口となり、モンゴル人によるルーシ支配の終焉を決定づけた(*5)。
  しかし、これまでの西洋史ではこの事実はほとんど無視され、「クリコヴォの戦い」の勝利のみが称揚されてきた。こうした近代における大国中心の史観が今や見直されようとしている(*6)。

   「シニ・ヴォディ川の戦い」におけるアルギルダス大公の勝利によってウクライナの大部分がイスラム化を免れ、キエフ・ルーシの伝統をうけ継いだ正教徒の国ウクライナが生き残ることができたのだと、熱く語るウクライナの人たちもいる(*7)。そして、1997年と98年の2度に亘って、ウクライナのキーロヴォグラードにおいて、ウクライナの専門家たちによる「シニ・ヴォディ川の戦い」に関する研究会が開かれた(*8)。また、2012年には「シニ・ヴォディ川の戦い」の650周年記念行事がウクライナで催された。リトアニアでも、同年、カウナスのヴィタウタス・マグヌス大学で650周年記念シンポジウムが開催された(*9)。
  これまで、この戦いは「ブルー・ウォーターズの戦い」(the Battle of Blue Waters)と呼ばれていたが、この「ブルー・ウォーターズ」は「シニ・ヴォディ」を意訳したものだ。今やこの呼称も変えるべき時がきたようだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)アルギルダス(Algirdas:在位1345年〜1377年)はゲディミナス大公の息子のひとり。ゲディミナス(Gediminas)については、余談21、66、67などを参照されたい。
(*2)現在のベラルーシの大部分とウクライナ北西部は当時リトアニアの支配下にあったから、これらの地域から正教徒の兵士が多数リトアニア軍に加わっていた。
(*3)ユジヌイ・ブーク川(南ブーク川)は、キエフ南西の高地地帯の麓の湿地地帯に発してオデッサの東方100km辺りで黒海に注いでいるが、そこはドニエプル川の河口でもある。ドニエプル川はウクライナの中央部を北からキエフを通って南へ流れ、ユジヌイ・ブーク川と同じ地点で黒海に注いでいる。この2つの川に挟まれたキエフ南方の地域を、このときアルギルダスが征服したのだが、その前に、彼はキエフを占領している。キエフは1323年に彼の父ゲディミナスが征服して弟のフェドルを総督としているが、しかし、フェドルは実質的にキプチャク汗国に服従していたので(「余談67:ゲディミナス大公のキエフ攻略」参照)、キエフが本当にリトアニアの支配下に入ったのは、アルギルダスによるこのときの征服からだとされている。
(*4)キプチャク汗国やその建国者バトゥなどについては「余談53:モンゴルの東欧侵攻とリトアニア」参照。
(*5)「ヴォジャ川の戦い」は、1378年、モスクワ南東のオカ川の支流ヴォジャ河畔でモスクワ公ドミートリイ(のちに、ドミートリイ・ドンスコイと呼ばれる)がキプチャク汗国のベギチ率いるタタール軍を破った戦い。「クリコヴォの戦い」は、1380年、トゥーラの南々東約140kmに位置するクリコヴォの原野で、モスクワ公ドミートリイがキプチャク汗国のママイ率いるタタールの大軍を撃破した戦い。その戦場はドン川の上流であったから、この勝利によってドミートリイはドミートリイ・ドンスコイ(「ドン川のドミートリイ」という意味)と呼ばれるようになった。
(*6)これまでの西洋史は、主に19世紀以後ヨーロッパの大国として重きをなした国々が中心になって編纂されたものだから、このとき既に滅亡した国や衰退して小国となってしまった国や民族の過去は、意図的(政治的)にか、あるいは、無意識的に無視されたり過小評価されたりして、我々の関心を引かなくなってしまった。特に、帝政ロシアの時代からソ連時代にかけての長い間ロシアの支配下にあった民族や地域の歴史がそうした被害をうけているようだ。
(*7)キプチャク汗国では、第9代汗ウズベク(在位1313年〜1341年)がイスラム教に改宗して以後、このモンゴル人の国はイスラム文化と融合し同化して行った。したがって、もし早期に「タタールのくびき」が打ち破られなかったならば、現在のウクライナの大部分はムスリムの国となっていただろうというのも一理ある。
(*8)キーロヴォグラード(Kirovograd)はキエフの南東約250kmに位置する現在のキーロヴォグラード州の州都であるが、ここから西へ100km余り行った所が「シニ・ヴォディ川の戦い」の戦場である。
(*9)「シニ・ヴォディ川の戦い」があった年月については、1362年か1363年の秋だといわれ、確定していないが、2012年にウクライナでもリトアニアでも650年の記念行事が催されたので、彼らは1362年としているようだ。
(*10)シニュカ川がユジヌイ・ブーク川に合流する地点ペルヴォマイシク(Pervomajsk)からシニュカ川を少し遡った所にトルホヴィツァ(Tornovytsia)という村があり、そこが戦場であるという。しかし、「シニュカ」(Syniukha)はその土地言葉で「シニ・ヴォディ」(Syni Vody)と呼ばれていたので、現在のウクライナの歴史家も、この戦いを英語で表す場合、“the Battle of the Syni Vody”としている。ところが、「シニ」(Syni)は英語の“blue”に、「ヴォディ」(Vody)は英語の“water”に対応するので、これまでこの戦いは「ブルー・ウォーターズの戦い」と呼ばれていた。これは「赤壁の戦い」を“the Battle of Red Cliffs”としているのと同じだが、固有名詞は現地の呼び方を尊重したい。
(2017年9月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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