2018年04月01日

先人の先進性について/沢辺 栄一

  ツキジデスは「歴史は過去と現在より推して未来を察知すべきものである」とした。現在の評論家である加瀬英明氏は「歴史は未来の案内人である」と言っている。
  これらの言葉を知り、日本の未来を推察するため日本史を読み直し始めたところ、我々の先人たちの業績は世界的にも格段に優れていることが多くあることが分り、未来のことはさておき、以下に先人の先進的行為・業績を列挙する。

◎神話の時代から王家が今日まで続いているのは日本だけである。ギリシャでも神話の時代は途絶えており、西欧の文明国ではとっくに失われている。
◎万葉集の作者は上は天皇から下は兵士、農民、遊女、乞食まで各階層に及び、そこに身分の差が全く見られないし、男女の差別もない。地域も東国、北陸、九州の各地方を含んでいる。純粋に「良い歌かどうか」で選ばれており、「歌の前に平等」であったことを示している。歌聖と言われる柿本人麻呂、山部赤人でも身分は高くなく、人麻呂は素性も知れぬ下賎の生まれであるとのことである。
◎聖徳太子は604年に「十七条憲法」を作成している。これは世界最初といわれる成文憲法である「アメリカ合衆国憲法」の制定1788年の約1200年前に、我が国は憲法を持っていたことは驚くべきことである。また、この「十七条憲法」の十七条において民主的な考えが既に取り入れられている。即ち「重大事は独断すべからず。必ず衆と論ずべし」とある。その理念は本当に素晴らしいものである。
◎聖徳太子の遣隋使以来今日まで、先進知識を得るため外国に留学に行くことが行われている。留学を政策として考えた国は日本だけであった。
◎光明皇后が756年に聖武天皇の遺品を収蔵するため正倉院を建設した。これは世界最古の博物館と見做せる。ロンドン大英博物館を始めとして世界各地に有名な博物館があるが、これらの博物館に収蔵されている遺品は考古学的な地中からの発掘物が主で、全て近代になってから蒐集したものである。正倉院は通風・防湿効果を高めた校倉造で、このような特殊建築が約1300年前に考案され、木造であるのに内容物と共に現存している例は他にない。
◎光明皇后の真筆といわれる「楽毅論」や「杜家立成」が正倉院に残されているが、その書は非常に優れたもので高い教養を示している。皇后の教養は娘である考謙天皇に引き継がれ、当時第一の学者と言われた吉備真備から「礼記」「漢書」を学んでいる。8世紀の半ばに女性が古典を学んでいたことは珍しい。イギリスのエリザベス一世が最初にギリシャ語を読んだと言われ、西洋の皇后や女王でギリシャ語やラテン語の古典を読むことが始まるのは16世紀頃からであり、その約700年も前に日本の女帝は外国の古典を読んでいたのである。
◎孝謙天皇は「百万塔陀羅尼」を残している。これは高さ20cmほどの小さな木製の三重の塔の中に陀羅尼経を印刷したものを収めている。知られる限り世界最古の印刷物で、これを収めた塔が百万基も作られたという。グーテンベルクの印刷したものより約700年も古く、世界にも類のないものである。
◎平安時代に中国に渡った留学生や帰化人によって多くの医学書が伝えられた。医術で朝廷に仕えていた丹波康頼がこれらの医書を系統的にまとめて「医心方」30巻にして円融天皇に984年奉呈した。これは隋・唐時代の中国の医学書200部から纏めたもので、世界的な文献である。漢方医学と言えば誰でも中国が本場と考えるが、ちゃんと長く伝えたのは日本である。明治時代この買い手の多くは清国からの留学生であったとのことである。
◎「源氏物語」は紫式部が1001年頃に書いた世界最古の小説で、しかも女性の書いたものである。イギリスのジェフリー・チョーサーの書いたヨーロッパ文学の頂点言われる「カンタベリー物語」は14世紀に書かれており、その他、イタリアのボッカチオが書いた「デカメロン」は1348年であり、フランスのラブレーの「ガルカンチャとパンタグリュエル」は1532年に書かれており、スペインのセルバンテスの「ドン・キホーテ」は1605年に書かれており、日本の最初の小説は西洋に比べて300年ないし600年早いのである。
 その他、清少納言の「枕草子」、「伊勢物語」などエッセイ、物語、日記など日本の平安時代の作品が世界で最初のものである。
◎平安時代に皇太子に経書を教えた滋野貞主が淳和天皇の命で一種の百科事典である「秘府略」一千巻を作成している。これは世界最古の百科事典である。中国の宋の太宗のときに「太平御覧」一千巻が作られたが、日本より約150年後のことであり、実際に完成されたかは不明である。
◎平安時代の頃日本は世界の製紙技術の先進国であった。安土桃山時代の日本のヨーロッパに対する最大の輸出品はティッシュペーパーだった。当時それを作れるのは日本だけであった。
◎芭蕉が始めた俳句は連歌の座で行うが、民主的であり、身分による差は無く武士も町人も女性でも商人の小僧でも参加できた。フランスのサロンは貴族が主だったが、日本の連歌の座は加賀千代女を始めとする女性の俳人を生んだだけでなく、女性の宗匠が連歌を主宰することがあった。当時、女性にそれだけの活躍の場があったということは外国にも例が無く、庶民がそれだけのことをできたという例も無かったようだ。
◎天才的商人、三井八郎右衛門は大阪と江戸に店を持って、京・大阪以南の年貢代金を大阪で受け取り、二ヶ月以内に江戸で幕府にその金銀を納める方法、今日でいう為替制度を発明した。大阪から江戸に動くのは為替の紙であるので、運送に手間が掛からず、道中の盗賊の心配もない。その60日間、三井はその金を大阪で運用して金利を得ていた。
◎江戸時代大阪は米の集積地であった。大阪堂島に米穀取引所が1688年出来、ここで世界最初の先物取引が行われていた。イギリス・リバプールにアメリカから送られてくる綿の取引所ができたのは1884年であり、日本より約200年も遅れていた。
◎徳川吉宗の時代に石田梅岩が生まれ、儒教と神道は対立するものでないと強く推し進めた。石門心学と呼ばれているが、中心思想は「心」で、儒教の教えも、神道の教えも、仏教の教えも全て自分の心を磨く砂であるという考えで、江戸時代の浮世絵と並んで江戸の二大文化であり、世界の宗教や修養の概念を180度変えている。浮世絵と同じく石門心学は社会の「下」の階級から生じたもので、当時日本を訪れた外国人が書いている江戸時代の庶民の民度の高さ、道徳性の高さを示す庶民文化の特徴である。
◎17世紀から18世紀に生きた関孝和とその弟子たちはニュートンやライプニッツに先んじて行列式に相当するものを発明し、その後、微分、積分さらには二重積分を全く独自に発明していた。数学そのものは世界の先端を走っていたが、数学を応用する工学は禁じられていたため、工学はからくり人形に留まった。
◎江戸時代に日本は郵便システムが世界一発達していた。定飛脚と呼ばれる郵便屋が全国の街道を往復していた。お金の輸送も安全に行われていた。
◎江戸時代1850年頃の識字率は70〜86%で当時世界一の識字率であった。武士の識字率は100%、長屋の子どもで手習いに行かない子どもは殆どいなかった。ちなみにイギリスの大工業都市の識字率は1837年20〜25%であった。
◎1868年明治天皇が五箇条の御誓文を発布、その第1条に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とし、民主的な決定方を示している。
◎明治維新の後、先進欧米諸国の文明を実際に見学して学ぶため、岩倉欧米回覧使節団を構成し、政府の重要な指導者たちが多数1年10ヶ月も掛けて米、英、仏、独など12カ国を回ったのは日本だけである。
◎二宮忠八はライト兄弟飛行の12年前1891年に飛行機の設計図を完成した。軍に提案したが、認められず、自分で資金を工面するのに時間が掛かり、ライト兄弟に先を越された。イギリス王立航空協会で二宮は空を飛ぶための原理を発見した人物と紹介された。
◎日露戦争で日本が勝利したが、その要因には画期的な新技術の導入があった。海軍では下瀬火薬を用いた新砲弾、陸軍では機関銃の導入である。下瀬火薬は1891年海軍技師の下瀬雅充によって発明された新型火薬で、破裂した弾殻が3,000以上の破片になりあらゆる方向に飛び、その気化したガスは3,000度の高熱で、鋼鉄に塗ったペンキはアルコールのように引火して火事を起こすもので、この火薬が敵艦に当ると甲板に一人も上がれなかったと言われている。これ以降世界の爆薬の歴史が変わっている。秋山好古がロシアのコッサク騎兵に対して当時最新の機関銃を用いて無敗を示した。
◎日本では歴史を通じて奴隷制、宗教戦争、町ぐるみの住民大量虐殺、人種差別が無かった。

以上、明治時代までの日本の先進性を列挙したが、これ以外にも数々の先人の素晴らしい行為があったことと思う。日本人のDNAを引き継がせて貰っていることに感謝している。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(1) | 沢辺レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 数々の興味深い歴史的事実や考察、いちいち、なるほど、と頷きながら読みました。大変参考になりました。近頃、「歴史に学べ」ということが大いに流行っているようですが、歴史に学ぶためには、先ず、歴史を学ぶ必要がありますが、これが簡単なことではないなあ・・・と慨嘆すること頻りです。
Posted by 武田充司 at 2018年04月01日 21:21
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