2018年05月16日

リトアニア史余談76:トラカイのカライム人/武田 充司

  静かな自然と湖の中に浮かぶ小島に築かれた古城の風情が訪れた人たちの心を癒してくれるトラカイは、首都ヴィルニュスから車で30分ほどで行けるから、日本からバルト3国の観光旅行に出掛けた人たちも必ず訪れているだろう。
  島の城を見たあと、ちっと時間があれば、キビニネで休憩して名物のキビナイ(*1)を食べる人も多いが、キビナイはその昔トラカイカに定住したカライム人の伝統料理である。

  1398年、キプチャク汗国の支配するクリミア半島方面に遠征したリトアニア大公ヴィタウタス(*2)は380組のカライム人家族を捕虜としてリトアニアに連れて帰り、トラカイに定住させたといわれている。現在のトラカイには総数100人に満たない小さなカライム人コミュニティがあり、トラカイのカライム通り30番地には彼らの礼拝所であるキェネサ(*3)がある。その隣にはカライム人の文化と信仰を伝える博物館もある。
  カライム人はアルタイ語族に属するチュルク語を話す民族だがヘブライ文字を使い、モーセ五書のみを信じる人たちである(*4)。彼らの信仰はユダヤ教に近く、ユダヤ教カライ派とも呼ばれるが、イスラム教の影響が見られることにもうひとつの特徴があるという(*5)。

  トラカイのカライム人は、初めはトラカイの城や町の護衛として軍務に服していたが、ヴィタウタス大公を崇拝し、大公を「敵を駆逐する王」と呼んでいた。彼らの伝承のなかには幾つものヴィタウタス大公にまつわる面白い話が残っている(*6)。
  しかし、トラカイの軍事的意味がなくなると、彼らの軍務も消滅して次第にリトアニア各地に散って行き、あちこちに彼らの居住区ができた。現在では、トラカイとヴィルニュスが主なカライム人居住地だが、そのほかにも、ビルジャイ、パスヴァリス、ナウヤミエスティス、ウピテなどに小規模なカライム人居住区がある(*7)。

  カライム人は、その信仰の類似性から、ユダヤ人と混同されることが多かったため、ユダヤ人に対する差別や迫害が激しくなると、彼らもまた被害者になる恐れがあった。そのため、彼らは自分たちがユダヤ人でないことを示すのに苦労した歴史がある。そうした活動が効果を発揮したのか、ナチスは彼らをユダヤ人とみなさなかった(*8)。そのため、多くのユダヤ人がカライム人に匿われて生き延びることができたという歴史もある。そのとき、カライム人は自分の生命の危険をおかしてユダヤ人を匿ったのだった。
  しかし、今では、長い歴史の流れの中で移住や同化によって昔からの伝統的カライムの信仰や文化を守っているカライム人コミュニティの数は著しく減少した。トラカイのカライム人コミュニティは、そうした数少ない残存コミュニティのひとつとして貴重な存在になっている(*9)。

〔蛇足〕
(*1)キビナイ(Kibinai)は餃子を大きくしたような半月形のパイで、イーストを使った生地で羊肉を包んで焼いたもの。
(*2)ヴィタウタス(Vytautas:在位1392年〜1430年)は1397年と1398年の2度に亘ってクリミア方面に遠征しているが、最初の年にはタタールを連れて帰ってきた。
(*3)このキェネサ(kenesa)は第2次世界大戦後、ヨーロッパで唯一閉鎖されないカライムの礼拝堂であったという。
(*4)ユダヤ教徒はモーセ五書を含む旧約聖書を聖典とし、さらに、現代のユダヤ教徒の多くはモーセの口承律法を収めたタルムードも聖典として認めているが、カライムの信仰では、こうした口承律法を一切認めていない。
(*5)カライム(the Karaims)、または、カライテ(the Karaites)とも呼ぶが、彼らの先祖は7世紀から8世紀にかけて栄えたハザール汗国にいたのかも知れないという。カスピ海東岸地帯からヴォルガ川下流地域に栄えたアルタイ系遊牧民国家であるハザール汗国は、宗教に寛容であったため、ユダヤ教徒やムスリムも流入したが、その後、キエフ・ルーシの勃興によって消滅する。クリミアのカライムは、13世紀後半にヴォルガ川下流に建国したキプチャク汗国の支配下に入ったが、キプチャク汗国の第4代汗ベルケ(在位1257年〜1266年)はムスリムになっている。そして、第9代汗ウズベク(在位1313年〜1341年)がイスラム教を国教とした。こうした歴史的経緯のどこかでカライムがムスリムの影響をうけたのではなかろうか。
(*6)こうした伝説のひとつ:彼らがトラカイに移住して間もない頃、大雨になり、目の前の湖の水が溢れて彼らの居住地を襲ったが、男たちは遠くの戦場に出ていたので、女子供たちばかりでどうすることもできなかった。そこで、女たちは城に押しかけヴィタウタスに助けを求めた。これを窓越に見たヴィタウタスは彼女たちの言葉を使って「安心せよ、直ぐ助けに行く」と応えると、白馬に跨ってカライムの街にゆき、溢れる水を白馬に飲み干させた。洪水から救われたカライムたちはヴィタウタスの栄光を讃えて感謝した。水を腹いっぱい呑み込んで巨大な体になった白馬はゆっくりと去ってゆき、そこで水を吐き出した。この水が現在のトラカイ市の北外れにある小さな湖プルヴィス(Lake Pruvis)になったという。今でも、この湖の水は馬の汗の臭いがするという。また、この湖の名はリトアニア語の汚物(purvas)と言う語と関係がある。なお、カライム通りに並ぶ彼らの家は、普通の家と違って側面が通りに面していて、その側面に3つの窓がある。これは、島の城の宮殿が側面に3つの窓をもっているのを真似たもので、3つの窓は、神とヴィタウタスと家族のためのものだという。
(*7)ヴィルニュスのジヴェリナス地区(Žvėrynas)にはカライムの礼拝所(キェネサ)がある。ゲジミノ大通りの西端から橋を渡ったネリス川の対岸がジヴェリナス地区で、ここにも「カライム通り」(Karaimų gatvė)があるから、それが目印になる。また、小規模なカライム人居住区として挙げた4つは、いずれもヴィルニュスより北に位置しているのが特徴である。
(*8)トラカイのカライムは、人種的には彼らの故郷であるクリミアのタタールとほとんど同じで、唯、宗教的にタタールはムスリムであるという違いで区別されている。しかし、第2次世界大戦後のクリミアでは、ソ連当局によって、タタールは強制移住させられたが、カライムはそうした迫害から免れた。
(*9)16世紀後半に活躍したトラカイのイサク・ベン・アブラハム(Issac ben Abraham of Trakai:1533年生〜1594年没)は、トラカイのカライム人コミュニティが生んだ著名な神学者で、ヨーロッパの宗教界に大きな影響を与えた。彼はラテン語とポーランド語に通じ、カトリック、プロテスタント、正教などの聖職者や学者だけでなく、異端と呼ばれていた様々な宗派の人々とも交流した。このような人物を生みだしたトラカイのカライム人コミュニティの長い歴史と固有の文化に思いを馳せればキビナイの味もまた格別だ。
(2018年5月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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