2018年07月16日

リトアニア史余談78:リトアニアにもあった正教の府主教座/武田 充司

  現在、リトアニアはカトリックの国であるが、正教は建国以前からリトアニア人にとって身近な存在であり、中世のリトアニアがその支配地域を東方に拡大するにつれて、多くのスラヴ人正教徒を抱え込むことになり、正教政策は異民族統治の問題でもあった。

  1316年、リトアニア大公となったゲディミナスは、支配地域に住む多くのスラヴ人正教徒統治のために、コンスタンチノープルに働きかけでナウガルドゥカス(*1)にリトアニア府主教座を開設することに成功した(*2)。そして、ロシア人のテオフィルスが初代府主教として着任した。これによって、それまで「キエフおよび全ルーシの府主教」とガリチア府主教の管轄下にあったリトアニア領内の正教徒が政治的にも宗教的にもリトアニア大公の支配下に置かれるようになった(*3)。
  1320年代になると、リトアニアの新首都ヴィルニュスにリトアニア府主教の代理が駐在し、交易活動に従事する正教徒商人たちのために、聖ニコライ教会を中心にロシア人街区が整備された。しかし、リトアニア国内の正教徒勢力が著しく拡大するようなことはなかった(*4)。

  1330年、府主教テオフィルスが滞在先のコンスタンチノープルで亡くなると、「キエフおよび全ルーシの府主教」テオグノストゥスはコンスタンチノープル総主教に働きかけ、リトアニア府主教座を降格させてしまった(*5)。こうして、リトアニア府主教座はわずか十数年の短い存在ののち消滅し、ゲディミナス大公の政治的宗教政策は挫折した。

  ゲディミナス大公のあとを継いだアルギルダスもまた正教徒統治の手段として、先ず、「キエフおよび全ルーシの府主教」に自分の意にかなった人物を据えようと画策したが、これは失敗に終わった。しかし、1354年にカリストスがコンスタンチノープル総主教になったとき、アルギルダスは、その機会をとらえ、新任のカリストス総主教に取り入ってリトアニア府主教座の復活を認めさせた。そして、ロマンが府主教として叙任されたが、その翌年、カリストス総主教は、ガリチア府主教座を廃してその管区をリトアニア府主教の管区に併合する決定を下した。しかし、その一方で、モスクワのアレクセイを「キエフおよび全ルーシの府主教」と認め、モスクワ公国への配慮も怠らなかった(*6)。
  こうして表面上は2つの府主教座の平和共存状態となったが、1350年代後半からアルギルダスは東方拡大の軍事行動を強化し、1362年にはキエフを併合した。そして、新たに支配下に入った各地で、そこがリトアニア府主教の管区であることを宣言した。しかし、1361年、府主教ロマンが亡くなると、再び、リトアニア府主教座は廃止された(*7)。それは、モスクワのリトアニアに対する挑戦の始まりでもあった。

〔蛇足〕
(*1)ナウガルドゥカス(Naugardukas)はリトアニア領内の重要都市で、ヴィルニュスの南々東約130kmに位置する現在のベラルーシの都市ノヴォグルドクである。当時、ここにはフランシスコ修道会も進出していたが、何といっても正教徒の多い地域であった。
(*2)ロシアの全正教徒はキエフの「キエフおよび全ルーシの府主教」の下にあったが、キエフの衰退によって、1299年、府主教マクシムスはコンスタンチノープルの裁可を待たずに府主教座をウラディーミルへ移した。当時すでに北東ルーシ諸公が力をつけていたから、ゲディミナスはリトアニアの支配下にある正教徒をウラディーミルから引き離し、独自の府主教座の下に置こうとした。また、1303年、ガリチア・ヴォリニア公ユーリイは、「キエフおよび全ルーシの府主教」がキエフを去ったことを口実に、独自の府主教座設置をコンスタンチノープルの皇帝アンドロニコス2世に請願して認められ、ガリチア府主教座が「キエフおよび全ルーシの府主教」の管轄から独立して設置された。これもゲディミナスの脳裏にあったのだろう。一方、皇帝アンドロニコス2世もビザンツ帝国の影響力拡大を考え、こうした求めに応じたのだ。その陰で、ゲディミナスやユーリイが皇帝に相応の貢物をしていたかもしれない。しかし、コンスタンチノープル総主教はこうした府主教座の分割に反対で、「リトアニア府主教座は変則的であり、現在の君主が亡くなったら閉鎖されるべきだ」とくり返し述べた。そこには正教の総本山における聖と俗の対立と葛藤があった。事実、リトアニア府主教座はゲディミナスの死を待たずに、府主教テオフィルスが1330年に亡くなると閉鎖された。
(*3)リトアニア府主教の管轄下にはポロツクとトゥロフの主教区が入った。トゥロフの主教区は1303年にガリチア府主教座が新設されたときからガリチア府主教の管轄下にあった。トゥロフはピンスクの東方約120kmのプリピャチ川南岸にあるベラルーシの小都市で、ヴィルニュスとキエフの中間にあり、そこからプリピャチ川を下ればチェルノブイリを経てキエフに至る。また、ポロツクはヴィルニュスの北東約240kmのダウガワ川上流に位置し、リトアニアが支配していた正教徒地域の重要都市である。
(*4)府主教テオフィルス(Theophilus)が布教に熱心でなかったことも一因だが、ゲディミナス大公は宗教的寛容政策をとって交易と経済の発展を促したが、領内では伝統的なバルト族の信仰を守り、民衆への布教は禁じていた。その一方で、征服した正教徒の地域は親族に統治させたが、彼らの多くは統治のために正教徒になっている。
(*5)テオグノストゥス(Theognostus:在位1328年〜1353年)はイヴァン1世カリターの厚遇を得てモスクワに住んでいたから、府主教座は実質的にウラディーミルからモスクワに移っていた。そして、府主教とモスクワ公は聖俗の両輪となって協力していた。
(*6)アレクセイ(のちの聖アレクシウス)は移住してきたキエフ・ルーシの大貴族の息子としてモスクワに生まれ、イヴァン1世カリターの庇護のもと、府主教テオグノストゥスの薫陶をうけて育った逸材で、イヴァン1世カリター没後はモスクワ公家の重鎮としてイヴァン2世(在位1353年〜1359年)を助けた。府主教テオグノストゥスは1353年にアレクセイを後継者に指名して亡くなったが、府主教の叙任権をもつコンスタンチノープルは裁可を渋った。そして、コンスタンチノープル総主教となったカリストス(Kallistos:在位1354年〜1364年)は、モスクワを牽制するために、リトアニア府主教座の復活を認めたが、その一方で、アレクセイを「キエフおよび全ルーシの府主教」として認め、両者への影響力を確保した。
(*7)2人の府主教アレクセイとロマンの争いは苛烈で、これは新興勢力モスクワとリトアニアの代理戦争でもあったが、1358年、府主教アレクセイがロマンに対抗してキエフを訪れたとき、アルギルダスはアレクセイを捕らえて投獄した。リトアニア府主教座の閉鎖はこうした事件も関係している。
(2018年7月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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