2018年08月16日

リトアニア史余談79:アルギルダス大公没後の内紛/武田 充司

  1377年5月、アルギルダス大公が亡くなると、あまたいる息子たちの中から、アルギルダスの2度目の結婚で后となったトヴェーリ公アレクサンドルの娘ユリアナとの間に生まれた長男ヨガイラがリトアニア大公となった。
  このとき、ヨガイラはまだ20歳代の若者であったと思われるが(*1)、アルギルダスは生前ヨガイラの才能を高く評価していたことから、この大公位継承はアルギルダスの遺志によるものと言われている。

  こうして若いリトアニア大公ヨガイラが誕生したのだが、彼の手に委ねられたリトアニアは1360年代から始まったドイツ騎士団の激しい攻撃によって危機的状況に追い込まれ、孤立感を深めていた。その一方で、アルギルダスが残した東方の広大な領土のルーシの民を統治するには、リトアニアの体制はあまりにも未熟であった。そこで、地方の諸公の中には、この際、独立しようとしてモスクワに擦り寄る者も出てきた。
  こうした状況の中で、それまで兄アルギルダスに協力してリトアニアを支えてきた百戦錬磨の老人ケストゥティスは、若い大公の後見人として、各地の諸公に対して睨みをきかせ、彼らの勝手な振舞いを厳しく規制した(*2)。

  ところが、若いヨガイラは叔父のこうした介入を疎ましく思うようになり、2人の仲は次第に悪化して行った(*3)。しかし、ヨガイラにとってそれよりも深刻な問題は、アルギルダスの最初の妻マリアが残した5人の息子たちとの対立であった(*4)。特に彼らの長兄アンドレイはポロツク公となっていたが、ヨガイラの即位を認めず、大公位継承権を争う気配を見せ、ポロツクを離れて北方のルーシの地プスコフに移って身構えた。そして、その後、モスクワ公ドミートリイのもとに身を寄せ、リヴォニア騎士団に働きかけてモスクワとリヴォニア騎士団の同盟を画策し、反リトアニア勢力の結集をはかった(*5)。
  1379年、モスクワ軍がリトアニアの支配下にあったブリャンスクに侵攻したが、そこはアンドレイの実弟ドミートリイが統治を任されていた。攻撃されたドミートリイは逆らわず兄に同調して反ヨガイラ勢力に加わった(*6)。しかし、モスクワ公ドミートリイはヨガイラと直接戦うことを避けたためアンドレイの反乱は竜頭蛇尾に終わった(*7)。

  その後もアンドレイはポロツクを拠点にリヴォニア騎士団を利用してヨガイラを悩ませたが(*8)、1387年、ヨガイラの実弟スキルガイラがポロツクを占領し、アンドレイを捕えてポーランドに送った。そこで幽閉されたアンドレイは、7年後の1394年に従兄弟のヴィタウタスによって解放されたが、1399年の「ヴォルスクラ川の戦い」にヴィタウタス率いるリトアニア軍の一員として参加して実弟ドミートリイとともに戦死した(*9)。

〔蛇足〕
(*1)ヨガイラ(Jogaila)の生年ははっきりしないが、1351年という説があるので、それならこのとき26歳である。
(*2)ケストゥティス(Kęstutis)は実兄アルギルダスより1歳年下といわれていて、このとき既に80歳であったはずだ。アルギルダス時代に獲得した東方の領地には一族の者が領主として配置されていたが、彼らの中にはこの機会に独自の行動をとって独立しようとする者もいた。そうした動きを容認すれば国家の分裂解体に至る恐れもあったから、ケストゥティスは若い大公ヨガイラに代わってそうした動きを厳しく取り締まった。
(*3)当初、ケストゥティスは若いヨガイラがリトアニア大公になることを認め、摂政として彼を支えて行こうとしていたようだが、年齢が50歳以上も違う2人は基本的な政策などで妥協できない深刻な対立に陥って行くことになる。しかし、それはまだ少し先のことであった。
(*4)アルギルダスの最初の妻マリアはヴィテプスク公ヤロスラフのひとり娘で、ヴィテプスク公領の相続人であったが、夫アルギルダスがリトアニア大公となって間もなく、5人の息子と数人の娘を残して亡くなった。その結果、ヴィテプスクはアルギルダスが相続した。アルギルダスの2番目の妻ユリアナは、モスクワ公イヴァン1世カリターの謀略によってキプチャク汗国で刑死したトヴェーリ公アレクサンドルの娘で、彼女の姉マリアはモスクワ公セミョン(イヴァン1世カリターの息子)の2番目の后となっていた。ユリアナは父亡きあと姉の嫁ぎ先のモスクワに引き取られ、そこからリトアニアに嫁いできた。なお、モスクワ公セミョンの最初の后はゲディミナスの娘アイグスタである。また、ユリアナの父トヴェーリ公アレクサンドルは、ウラジーミル大公位をめぐるモスクワとの争に敗れたとき、ゲディミナス大公時代のリトアニアに亡命している。
(*5)アルギルダスの最初の妻の長男アンドレイと2番目の妻の長男ヨガイラとの大公位争いは異母兄弟の争いで、当時、大公位継承のルールがなかったことが問題を複雑にしたといえるが、生まれたときの父親の地位が問題で、アンドレイはアルギルダスがリトアニア大公になる前に生まれているのに対して、ヨガイラはリトアニア大公アルギルダスの子として生まれている。また、アンドレイは1325年生れといわれ、当時、既に52歳であったから、若いヨガイラの君臨を苦々しく思ったかもしれない。なお、アンドレイは正教徒としての洗礼名で、彼は1342年にプスコフ公に迎えられて正教徒になった。その後、リトアニアにとって重要な拠点ポロツクの公になっている。
(*6)モスクワとリトアニアの間には1372年にアルギルダスが結んだ7年間の期限つき平和条約「リュブツク条約」があったから、その期限が切れた1379年にモスクワはリトアニアを攻撃した。アンドレイの実弟ドミートリイもその名から分かるように正教に改宗していて、1356年に父アルギルダスからこの地の統治を任され、ブリャンスク公となっていた。当時、ブリャンスク公領はリトアニアとモスクワが競い合う境界地帯であった。
(*7)1379年にはドイツ騎士団もリトアニアに侵攻して首都ヴィルニュスに迫ったため、ヨガイラとケストゥティスはドイツ騎士団と10年間の休戦協定を結んで難を逃れたが、この協定がリヴィニア騎士団も束縛したため、モスクワとリヴォニア騎士団の反リトアニア連合は機能不全に陥り、アンドレイの思惑通りには行かなかった。しかし、アンドレイとドミートリイの兄弟は、1380年の「クリコヴォの戦い」で、モスクワ公ドミートリイ(のちのドンスコイ)に協力して戦っている。
(*8)1385年、アンドレイはリヴォニア騎士団と条約を結んでリヴォニア騎士団の支配下に入り、ポロツクを確保してヨガイラに抵抗した。
(*9)この戦いで、ヴィタウタス率いるリトアニア軍は、キプチャク汗国の汗テミュール・クトルク率いるタタール軍に大敗した。
(2018年8月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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