2018年09月16日

半世紀前の記録から エジプト/小林 凱

 先日Blogのコメントを書いた時、古い昔の話が案外気楽に書けるかも知れないと思った事がありました。
 長い歳月に記憶の大半が消失する中で、年月に拘る訳ではないが区切りを考えれば、一般に50年は多くの事が消失する時でもあり、その中で消失しかけた記憶が書けないかと思いました。処が取り掛かると意外に記録が少なく、特に何かにつけ当時の記述が少ない。結局印象に刻まれた記憶で書いて、取り違いがあってもご寛容下さいと言う事になって仕舞いました。

 1966年7月エジプトを訪問した。もともと南アフリカが目的地であったが、その途中だからちょっと立ち寄ればという話で行けとなった。この発想は、私達がかって三省堂の世界地図を教科書として地理を学んだ時代の影響かも知れない。日本のある北半球と、真ん中を赤道が通るアフリカでは縮尺が全く違う。しかしそのお蔭で7月後半羽田発London行きのAirIndiaでBombay(今のムンバイ)経由して早朝のカイロに着いた。

 当時のエジプトはその永い歴史の中で、古代を別とすれば短いが輝いた期間であった様な気がする。この国では戦後暫くして青年将校らの革命が成功し、ファルーク王が追放される。スエズ運河国有化に反発した英国の介入も他国に足を取られて中座し、ナセル大統領はその地位を固めて新しい国造りを開始する。その中から計画された幾つかのプロジェクトに、日本も遅ればせながらと入ったという事でしょう。
 しかしその1年後にはシナイ半島で6日戦争が勃発し、イスラエルがエジプトを中心とするアラブ連合に完勝して中東情勢は一変した。私が訪ねたのはその前、即ちアラブの星が輝いて居た時期でもあった。

 7月のエジプトは暑かったが、それ迄の数年間東南アジアを中心に周っていた経験と比して大した事は無かったし、何より人々は活き活きとして働いている印象であった。当初の予定として7月18日の週一杯をカイロで過ごし、週末にケニヤのナイロビに移動し翌朝ヨーロッパから来る便に乗り変えて、南アフリカのヨハネスブルグに行く事にしていた。
 カイロでの宿はナイル河畔にあるEl Borgというホテルで、それ程高級では無いが便利で眺めの良い所に在った。ホテルの絵葉書が良い記録となっている。(Fig1) ナイル川の対岸にはセミラミスなどのホテルが見える。
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Fig1
 先方との打ち合わせは、カイロ近郊のヘリオポリスという古くからの都市で行われた。此処に新しい所得層を対象としたNew Townの建設計画があったからである。

 当地に来て判ったのは、その週の金曜日がイスラムの祝日に当たるとかで、出来れば打ち合わせはその前に終了したい先方意向であった。私も次週にずれこむのは好ましくなく、是非そうしましょうと努め、思ったよりスムースに話は進み無事木曜日に終了した。その夜は夕食会をやるとかで、急ぎカイロの町に帰ると旅行代理店にツアーを申し込んだ。この千載一遇の機会に当地の見物が出来ぬか当って貰う為である。

 幸い私が望んでいた1日のツアーに滑り込み参加出来た。これは市内を少し見物してからエジプト考古学博物館を訪ね、古代エジプトの品々を見て勿論ツタンカーメンの墓の出土品を拝観する。その後郊外に移動しメンフイス(古代エジプトの首都)を訪れ、ラムゼス二世像やサッカラの遺跡を見てNile Hiltonで昼食してギゼに行き、スフインクスを見学してからピラミッドを訪問する。つまり初めての訪問者が望む所が一通り入っていた。
 この予約で感心したのは旅行代理店の仕事ぶりであった。もともと時間の無い駆け込み話であったし、この他にカイロ滞在後の航空機予約変更もあったが頑張って纏めてくれた。ここで幸運だったのは、当時は未だ著名な観光地でも混み方が少なかったからでしょう。

 翌朝ホテルピックアップしてバスでエジプト考古学博物館へ行く。私たちのグループは20〜30人位だった気がする。大部隊で無くてほっとしたが、これはピラミド訪問時の運用上の理由もあった様だ。
 博物館前庭の植栽にはパピルスが植えられていた。(Fig2) 博物館は少し古い建物で、収蔵する品々の計り知れない値打ちには少し釣り合わない感じもしたが、恐らくその後セキュリティ強化も含めて改修されて居ると思う。Fig2(40%).jpg
Fig2
 ツタンカーメンの遺品は二階の大きな部屋に展示されていた。日本にも来てお馴染みとなる少年王の黄金のマスクはすぐ目に入った。(Fig3)
 幸い行列で並ぶ様なことは無く、時間と自分の好みに合せて見れば良かった。此処で凄いと目を奪われたのは、王の遺品、或いは生前の暮らしを偲ばせる品々であった。
Fig3(40%).jpg
Fig3
 例えば王の馬車、二輪だから戦闘車と思うがその精巧な造り。また王の椅子に施された絢爛な装飾に、この時代の工藝レベルの高さに驚嘆した。拝観してから半世紀が過ぎて希薄な私の記憶だが、玉座の背には少年王と彼への優しい愛情を示す王妃が刻まれて居た様に思う。これに3,300年前の人たちが遺した深い気持ちを感じた。
 これらの宝物はとても良い状態で長い年月を過ごして来ており、また此処に並んでいるのは出土品の一部であると聞いて、古代エジプト王朝のファラオの凄さに再度感心した。一方この素晴らしい品々の大半は、海外への持ち出し展示には損傷の危険が在るだろうと思った。

 この後私たちはナイル西岸の砂漠に移動し、古代の都メンフイスの跡やサッカラの古いピラミッドを見物してからギゼへ行った。此処にはエジプト紹介には何時も登場する3基の大ピラミドとスフインクスが鎮座している。現在はその前に太陽の船を収納した展示館が立てられている様だが、私が訪れたのはその以前である。
 此処ではクフ王のピラミドが最大最古(2,580BCころ)であるが、スフインクスは二番目のカフラー王のピラミド(2,500BCころ)を守護する様に座っている。(Fig4) この角度は写真撮影に良く使われている様だ。
 ピラミドを外から眺めてから次は内部を見物するため、私たちはクフ王のピラミドに行った。(Fig5) 実は私の古い記憶ではカフラー王のピラミドに入った様に思っていて、整合しない点も有り如何かと思案していたが、幸い古い写真の横にCheops(クフ王のギリシャ呼称)の記入があって、クフ王のピラミドに入ったことが改めて判った。
 
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Fig4 
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Fig5
 ピラミドの中は狭い石段の通路をガイドの後について登って行った。所によっては頭を屈めて通った様に思う。それで大人数のグループに合わないのかと理解した。途中は特に記憶に残る物は無くて、暗い石の通路の先に玄室に到達した。
 玄室の中は石棺以外何もなかった。石棺は一つの石から削り出した様に記憶するが、蓋は無く勿論中身は無かった。これをどの様にして搬入したかはミステリーだが沢山の研究がなされて居る事でしょう。

 暫く玄室を見てガイドの説明を聞いた後、私たちは外に戻った。冥界のツアーから現世に戻ったと言いたい所だが、外の強烈な太陽の光にその様な記憶は残っていない。
 この後私たちはカイロ市内に帰りツアーは終了した。盛り沢山で疲れはしたが、色んな著名な所が一度に見れた満足感は十分にあった。
私は翌朝早い便で出発する予定だったので、この後は食事と休養が先ず第一であった。

 其の後、長い年月が過ぎて何かの機会に古代エジプトの解説記事を見たことがある。昔訪ねた所なので懐かしく読んでいたら、ツタンカーメンの死因について触れていた。何故少年王が早くしてこの世を去ったのか、一つは近親婚による健康障害ー病死である。二番目に挙げられたのは毒殺説、つまり何者かが少年王に一服盛った説である。ここには何人かの容疑者が取り沙汰されていたが、その筆頭に挙げられたのは后のアンケセナメン、すなわち私がカイロの博物館で感銘した女性であった。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 小林レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
50年前にエジプトを訪れたお話を興味深く拝読しました。中々訪問する機会が少ない太古の地を50年も前に訪問され貴重な体験をされましたね。エジプト王の謎の死については、私も大変関心があります。日本では、織田信長や坂本龍馬の死は謎に包まれたままです。
私は遂に中近東やアフリカを訪れる機会がありませんでした。1980年代前半に、サウジのアラムコに光通信システムを納入するプロジェクトに参加、2回出張の機会があったのですが、他国で緊急トラブルが発生し、他国に出張しました。その後、エジプトの首都に導入を計画していたのですが、電線や水道管などの地図が正確ではなく、検討中の1984年に日本の通信自由化で日本高速通信(合併して現在KDDI)出向となり、実現しませんでした。
しかし、1961年8月にフルブライト留学の時、エール大学で1ケ月、45名35ケ国の留学生と研修を受けました。その時、大学ノートに全員の名前、出身地、原語で一言、その英訳、を書いてもらいました。改めて掠れたノートをめくってみたら、エジプトのアレクサンドリア出身の学生がいました。楽譜の様なアラビア語の下にIt was a great pleasure to meet Mr.Ohashyと書いてありました。1ケ月後に記念写真を撮り、夕方のタレントナイトでは、アフリカ出身の男女学生の踊りが暗闇に白衣をまとって圧巻でした。人気投票では、トルコ出身の女子学生がミス・エール、私はモースト・チャーミング、ルームメイトのメキシコ出身の学生は女子学生にもて過ぎて、ミスター・ウルフに選ばれました。
Posted by 大橋康隆 at 2018年09月17日 16:22
コメントを拝見して当時の若い研究者や学生がフルブライト留学制度で米国へ渡った昭和30年代を懐かしく思い出しました。大橋さんの話はコースの始めに有るOrientation Programでしょうか?この様な経験は当時の日本と一番差があった領域に直に触れられたと推測します。
 処で世界各地を旅すると、当地の美女が由緒ある由来だとする話を聞きます。例えばマケドニアのアレキサンダー大王の東征はインドの北西部に至りました。それが今日インドのパンジャブ地方で美女が多い訳だと聞いた事があります。するとトルコなど全くのお隣ですからミス.エールが出てもおかしくないと拝見したが、この辺は沢山の異説が出る処でしょう。
Posted by 小林 凱 at 2018年09月24日 16:26
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