2018年10月16日

リトアニア史余談81:ケストゥティスの最期/武田 充司

 アルギルダス没後、アルギルダスの弟ケストゥティスとアルギルダスの息子ヨガイラの対立が激化し、1381年秋、ケストゥティスはリトアニア大公ヨガイラを捕えて監禁し、自ら大公の座についた(*1)。
  しかし、間もなくヨガイラは叔父ケストゥティスに忠誠を誓って許され、クレヴァとヴィテプスクを領地として与えられた(*2)。

 こうして内紛を終息させたケストゥティスは、ドイツ騎士団に対する報復攻撃を開始し、ケーニヒスベルク東方のタピアウを落し、プレゴリャ川を渡ってドイツ騎士団領深く侵攻した(*3)。しかし、その間に、ヨガイラの実弟でノヴゴロド・シヴェルスキ公のドミートリイ・コリブト(*4)がケストゥティスに反旗を翻したため、ケストゥティスはドミートリイ・コリブトを討伐するためにノヴゴロド・シヴェルスキに遠征した。ところが、ケストゥティスが首都ヴィルニュスを留守にしている間に、ケストゥティスの支配に不満をもつヴィルニュス市民が貿易商ハヌル(*5)に率いられて反乱を起し、ヨガイラの軍隊を市内に入れてしまった。留守を預かってトラカイにいたケストィティスの息子ヴィタウタスは急遽ヴィルニュスに迫ったが、時すでに遅く、ヨガイラが再びリトアニア大公として迎えられた。

 政権を奪還したヨガイラは、その年(1382年)の7月、トラカイ近くのブラジュオレ(*6)でドイツ騎士団と2か月間の休戦協定を結んだ。トラカイの間近にドイツ騎士団とヨガイラの軍勢が結集したのを見たケストゥティスとヴィタウタス親子は、やむなく、トラカイを明け渡して南方に身を隠し、反撃の準備をした。そして、その年の8月3日、ケストゥティス率いる連合軍とヨガイラの軍団が対峙したのだが、決戦には至らず、話し合いで解決することになった(*7)。
 ケストゥティスとヴィタウタス親子は話し合いのためヨガイラの陣営にやって来たのだが、そこで彼らは捕らえられ、クレヴァの城に監禁されてしまった(*8)。話し合いはヨガイラの仕掛けた罠であった。

 クレヴァの城に監禁されたケストゥティスは、それから数日後の8月15日、不審な死をとげた。首を吊って死んだとヨガイラは説明したが、何者かに絞殺されたのだという噂が流れた。ヨガイラの実弟スキルガイラが母ユリアナに唆されてやったという推測もある(*9)。こうして、ケストゥティスは、ドイツ騎士団との戦いに明け暮れた80年余の生涯をクレヴァの城の牢獄で閉じたのだった。
 息子のヴィタウタスは、それから間もない1382年の秋、巧妙にクレヴァの城を脱出した(*10)。そして、ドイツ騎士団のもとに身を寄せ、従兄弟のヨガイラと戦う決心をした。

〔蛇足〕
(*1)ここまでの2人の争いの経緯は「余談80:ケストゥティスとヨガイラの確執」参照。
(*2)クレヴァ(Krėva)はヴィルニュスの南東約80kmに位置し、現在はベラルーシの町だが、当時はリトアニアの東縁を守る重要拠点のひとつで、ゲディミナス大公が築いた城があった。ゲディミナス没後は息子アルギルダス(ヨガイラの父)の領地となっていた。また、ヴィテプスク(Vitebsk)はヴィルニュスの東方約310kmに位置する現在のベラルーシの都市だが、当時はアルギルダスの最初の妻マリア(ヴィテプスク公の娘)からアルギルダスが相続したものである(「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」の蛇足(4)参照)。したがって、クレヴァとヴィテプスクをヨガイラに与えたのはケストゥティスの恩情であったのだろう。
(*3)タピアウ(Tapiau)は現在のロシア領カリーニングラード州のグヴァルデイスク(Gvardejsk)で、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)の東方約35kmに位置するプレゴリャ川北岸の都市である。ケストゥティス率いるリトアニア軍はプレゴリャ川を渡ってナタンギア地方を通り、現在のポーランド北部のヴァルミア地方(当時は騎士団領)にまで侵攻した。
(*4)ドミートリイ・コリブトはアルギルダスの2度目の妻ユリアナの三男カリブタス(Kaributas)のことで、コリブト(Korybut)はカリブタスの変形したもので、ドミートリイは正教徒としての洗礼名である。ノヴゴロド・シヴェルスキ(Novgorod-Siversky)はキエフの北東約250kmに位置するデスナ河畔の歴史的都市で、現在はウクライナ領内にある。この地域はアルギルダスが征服して息子のカリブタスに統治させていた。
(*5)ハヌル(Hanul)はリヴォニアの貿易商人の頭目で、ヴィルニュスのフランシスコ会士の庇護者でもあった。当時、ヴィルニュスの富裕層はリヴォニア(現在のラトヴィア)のリガのドイツ人(ハンザ商人)との交易によって富を得ていたが、ドイツ騎士団との対決姿勢を基本とするケストゥティスの外交に対する報復として、ドイツ騎士団(即ち、リヴォニア騎士団)はリガとの交易を妨害したため、ヴィルニュスの富裕層はケストゥティスの支配を嫌っていた。また、当時のリトアニアは打ち続くドイツ騎士団との戦いによって荒廃していたから、ヴィルニュス市民はドイツ騎士団との更なる対決は望んでいなかった。これもケストゥティスが嫌われた原因であった。
(*6)ブラジュオレ(Bražuolė)はトラカイの「島の城」があるガルヴェ湖の北岸の村。
(*7)このとき、ケストゥティス陣営の強力な一翼であるジェマイチアの軍団が、リトアニアの内紛に巻き込まれてヨガイラ軍と戦うのを嫌ったことと、ヨガイラ側には強力なドイツ騎士団軍が加勢していたことから、ケストゥティスはやむなくヨガイラとの話し合いに応じたのだという。また、ヨガイラは常に戦いは最後の手段と考え、外交的駆け引きで問題を有利に解決しようとするタイプの人だった。
(*8)クレヴァは、先に述べたように、ケストゥティスがヨガイラに与えた領地だから、そこの城にケストゥティス親子が監禁されたのは誠に皮肉な運命だった。
(*9)ヨガイラやスキルガイラの母ユリアナはトヴェーリ公アレクサンドルの娘である(「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)。即ち、彼らの母ユリアナはロシア人正教徒で、息子たちに政治的な助言もしていたようで、かなり大きな影響力を保持していた。したがって、この推測(William Urban “The Teutonic Knights” p.180参照)も説得力がある。
(*10)このとき、ヴィタウタスの母ビルーテは現在のベラルーシの都市ブレストで殺害され、ブク川で溺死体となって発見されたといわれているが(「余談20:ビルーテの生涯と伝説」参照)、この事件はヴィタウタスがクレヴァの城を脱出したことと関係があるという。
(番外)アルギルダスの2度の結婚相手が何れもロシア人正教徒であったことから、彼の息子たちは皆ロシア人正教徒の母に育てられた。これはこの内紛を考える上でひとつのヒントになるだろう。
(2018年10月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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