2018年10月16日

半世紀前の記録からーアテネ1/小林 凱

 1966年7月、私は早朝の便でエジプトのカイロからギリシャのアテネへ向けて飛んだ。
 カイロにはその数日前から来ていて、当初の計画ではカイロの後ケニヤのナイロビに行って一泊し、その翌朝ヨーロッパから来る便に乗り換え南アフリカへ向かう事にしていた。そのフライトやNairobiのホテルの予約が必要の為近くの(どうも同じホテル内であった様な気がする)旅行代理店に来ていた。
 ところでこの直前に申し込んだカイロ周辺のツアーが直ぐ取れた事で旅行代理店の担当者(女性)の意気は上がって居り、後に続く旅も楽しくしたいと種々提案してくれた。そこでケニヤには1泊してもしょうがないと言う。折角だから向きはずれるが距離の近いアテネ辺りはどうかとその可能性を調べて呉れた。

 ここで当時の航空券システムを微かな記憶から辿ると、西側の航空会社はIATAの国際運賃協定に加入していて、当時の日本ではJALが加盟していた(ANAはどうだったか記憶不明)。ここで日本を出発する時には確定した区間のみ予約して、後は帰国する迄の一連の旅程を立ててOPENにして置き、代金を前払いした航空券を携行する。これは今日の様な種々の割引が無い代わりにIATA加盟の各航空会社に乗れたから、現金持参のリスクを省け兎も角日本へ帰って来れる安心があった。旅先で帰国の予定が決まったらそこで乗る便を確定して予約する。経路変更が必要時は航空券を旅行代理店に持参して切り替えて貰い、これにより運賃が変わる時は差額を支払う。この利点は変更区間のみで無く全体の旅程で計算するので短区間だけ突出して高くならない。但しこの運賃適用には全区間がIATA加盟のフライトが必要になる。
(注)この辺り私の記憶誤りや、他にも制限事項があるでしょう。その点ご寛容下さい。

 この時の便の状況は、アテネから南アフリカのヨハネスブルグ行きは、Rome始発のアリタリア便が夜半にありこの席は取れるから問題ない。一方早朝カイロからアテネへの便はMALEV(ハンガリー航空)で、ここは当時の冷戦時代の東側なのでIATA未加盟で航空券は別途購入必要。他に全体を継続した経路にする費用もあって、私の懐中では対応困難として折角だがアテネ廻りの話は断った。
 これに就いて旅行代理店の方は折角の話が勿体ないと、少し考えた上で航空会社に電話して交渉を始めた。暫くして私に向かって、”MALEVはIATAの航空券でも受けると言っている、また明後日朝の席も有ると言うがどうする?”との事で、私はこの話受けて欲しいと即答した。
 この後は全部旅行代理店の方でやってくれた。アテネへの回り道で生じる追加費用は思いの外少なく、私はその場で支払った。航空券は書き換えが必要となったが、私が見物している間にやって置くからとの話で、翌日ピラミッド見物から帰ると新しい航空券がホテルのフロントに届いていた。

 この様にして思いがけなく7月23日(土)のMALEV 406便、カイロ発06:00、アテネ着07:30で急ぎの見物の旅に出かけた。空港には朝4時頃に着く必要があったから、市内のホテルは随分早く出かけた筈だが、途中の道筋含め詳細は良く覚えていない。
 空港では真っ先にMALEVのカウンターへ行くと、ようこそと新しく出来た航空券を受け取り、アテネへの搭乗券を呉れて全く問題は無かった。
 この便の機材はソ連製のイリューシンIL-18型ターボプロップ機で、乗り心地は悪い事は無かった。却って低い高度でゆっくり飛ぶから下の景色が良く見えて、更に当日は晴天で初めてこの地を旅する私には嬉しい事であった。この経路を図示します。(Fig1)atene(130%).jpg
Fig1
 離陸後暫くして機内サービスが始まり、客室乗務員(CA)が軽食を配って来た。私にもパックが渡された時、ワインは如何ですか?とCAが耳元で囁いた。私は地中海の景色にすっかり良い気分になって居たので、ここで飲むのも悪く無かろうと、欲しいからお幾らですかと訊いた。これに対するCAの返事に驚いた。”貴方からお代は要りません。IATAのフライトでなら要りますが、此処は違いますからお好きなだけ飲んで下さい。私たちはこの便にとても良い白ワインを積んでいてお勧めです。”
 此処で静かな乗客勧誘の実態にはっと気づいたが、それ以上に私がどの様な航空券で搭乗したのか、このCAは知って対応して居た事に驚いた。彼女は私のテーブルにグラスを置くと、良く冷えたボトルから透明に輝くワインをなみなみと注いでくれた。
 なお雑談ですが、当時の国際線機内メニューではEconomy classでビール25cents,スコッチ30cents,ワイン一般物30cents位、一方First classではこれらはComplimentaryが普通であった。

 私達のフライトは間もなくクレタ島上空を横切ってエーゲ海に入った。クレタ島は赤色の地肌で樹木は少なかったが、白い石造りの建物が神話を想像させ、続くエーゲ海では一転して沢山の島々が眼下に拡がり退屈しない旅であった。
 この景色を眺めワインを味わいながら、この数日間短いエジプト滞在であったが随分親切にして貰ったと振り返った。理由として私はエジプトとの関係や歴史には詳しく無いので、前に来た人達が紳士で善行を遺した所為だろうと勝手に結論づけた。

 予定通りアテネ空港に着陸した。此処も申し分ない晴天で、海からの風は爽やかであった。
 空港では先ずその夜の南アフリカ行きのアリタリア便を確認した。”決して時間に遅れるな、市内ターミナルでは12:15、空港カウンタなら01:00必着とのカードを貰って空港バスに乗った。アテネの町は空港から海沿いの道を走った先で、途中で古代からの港町ピレウス(Piraeus)が前方に現れるのを眺めてアテネに入った。

 この後アテネでの忙しい一日を過ごして、夜半過ぎ南アフリカのヨハネスブルグへ向かったのですが、これに付いては次回のレポートと致します。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 小林レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 IATAの航空券では僕も似たような経験があります。1960年代のはじめに、英国に長期滞在したあと、渡英時に持って出た往復航空券の帰りの券は、ロンドンから欧州経由で羽田になっているだけのものでした。そこで、帰国の日程が決まったあと、トラヴェル・エージェントに行って、具体的な航空便の予約をしたのですが、このとき、パリにでも寄って帰ろうかと思い、その旨、エージェントの人に伝えたところ、南まわりで、アテネに1泊して帰らないか、と提案されました。説明をよく聞いてみると、運賃は同じなので、エクストラ・チャージはなしで、アテネのホテル代は航空会社がサービスするので、不要だというのです。それで、この提案をうけ入れて、アテネ経由で帰国したことを覚えています。
 これは、航空会社が客を奪い合っていたために、アテネのホテル代を無料にしてでも、自分のエアラインに客を乗せたかったのだと思います。
 それにしても、当時のIATAの航空券は柔軟性があって、便利だったなあ、と思います。

Posted by 武田充司 at 2018年10月16日 21:09
 武田さんがアテネで1泊したのと恐らく同様のシステムで私も香港に泊った事があります。
1966年4月インドに居て月末帰国となりました。時期が5月の連休に掛かるので香港で1泊してみたいと旅行代理店に話しました。推奨されたのは航空券は香港で区分し、乗るのは香港で終了し東京へ乗り継ぎが無い便を使う。するとそこまでのキャリアが到着地の宿を手配してくれる。私の場合スイス航空で始発がチューリッヒあとジュネーブ、アテネ、カラチと経てインドのカルカッタで12:15搭乗しバンコクを経て香港に21:20着止。宿はMiramar Hotelで悪い処ではありませんでした。翌4/29日はJL62便HK15:40発東京19:20着、当時は関西に居たのですぐ21時の便で伊丹に帰れました。仰る様にIATAの時代を懐かしく思いました。

Posted by 小林 凱 at 2018年10月18日 15:30
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