2018年12月16日

リトアニア史余談83:カウナスのマリエンヴェルダー/武田 充司

 マリエンヴェルダーといえばポーランドのクフィジンにあるマリエンヴェルダー城が有名だが、かつて、ほんの一時であったが、リトアニアのカウナスにもマリエンヴェルダー城があった。

 1382年8月、ヴィタウタスは、ヨガイラとの抗争に敗れた父ケストゥティスとともに、クレヴァの城に幽閉されたが(*1)、父が獄死したあと、首尾よく脱獄してドイツ騎士団のもとに走った。そして、キリスト教徒(カトリック)になることを誓い、父ケストゥティス以来の所領であったジェマイチア(リトアニア西部地域)だけでなく、カウナスまでも放棄して、ドイツ騎士団の庇護下に入った。
   1383年10月、ヴィタウタスは妻アンナとともに、タピアウ(*2)において受洗し、洗礼名ヴィガントを与えられた。ドイツ騎士団総長コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインは、臣下となったヴィタウタスにジェマイチアの教化をまかせ、ドゥビサ川がニェムナス川に注ぐ地点に築かれた城、新マリエンブルク(*3)に行かせた。
   一方、ドイツ騎士団総長コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインは、その翌年(1384年)の5月、築城要員と守備隊の一団を率いてカウナスに赴き、新しい城の建設を開始した。そして、その城をマリエンヴェルダーと名付けた(*4)。

   こうした状況に形勢不利と思ったのか、リトアニア大公ヨガイラはヴィタウタスと和解しようとしたが、ヨガイラの示した和解の条件に納得できなかったヴィタウタスはそれを拒否した(*5)。しかし、これが発端となって従兄弟同士の彼らの間で水面下の接触が続いた。

   同年(1384年)7月、ヴィタウタスは突然ドイツ騎士団に反旗を翻してニェムナス川下流の城ゲオルゲンブルク(*6)を襲って焼き払うと、直ちに、その上流にある自らの活動拠点でもあった新マリエンブルクの城も焼き払った。このとき、カウナスの築城現場で陣頭指揮を執っていたドイツ騎士団総長コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタインは、夏の休暇のため、帰国していた。ヴィタウタスは騎士団総長が1か月以内にカウナスに戻ってくることはあるまいと踏んでいたから、ヨガイラに軍事行動を起すよう説得した(*7)。
   こうして、ヴィタウタスとヨガイラの連合軍はカウナス奪還の攻撃を開始した。しかし、ドイツ騎士団の築いたマリエンヴェルダー城の攻略は困難を極めた(*8)。そうしているうちに、ドイツ騎士団総長が援軍を率いてカウナスに戻ってきた。しかし、リトアニア軍に包囲されて孤立したマリエンヴェルダー城に近づくこともできず、結局、籠城している守備隊を見捨てて帰ってしまった。そして、その年の暮、城の守備隊は降伏した(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
(*2)タピアウ(Tapiau)は現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の首都カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク)の東方約40kmにある都市グヴァルデイェスク(Gvardejsk)のドイツ語名で、当時はドイツ騎士団の都市であった。
(*3)この地点は「余談82:発効しなかった条約」で述べた「ドゥビサ条約」の交渉の場となった場所で、この辺りにドイツ騎士団は新たな城を築いてマリエンブルク(Marienburg)と名付けたが、これはドイツ騎士団の本部と同名なので「新」を付けた。
(*4)カウナスはケストゥティス一族にとって重要な場所だが、「余談75:カウナスの城」で述べたように、ドイツ騎士団もここを執拗に攻撃している。したがって、この当時、カウナスの城は荒廃していたのだろう。マリエンヴェルダー(Marienwerder)の“Marien”部分は言うまでもなく「聖母マリア」のことだが、“Werder”はドイツ語で「川中島」とか「河岸の低地」を意味するので、城が築かれた地形からこう呼ばれたのだろうが、ドイツ騎士団は既にプロシャに同名の城を築いていたから、これは「新マリエンヴェルダー」となるのだが、先の「新マリエンブルク」のように、当時のドイツ騎士団の城には同名のものがある。
(*5)このとき、ヨガイラは、ルーツク(Lutsk)を含むヴォリニア(Volhynia)をヴィタウタスに譲渡するという条件を提示したが、これではヴィタウタスが納得するはずがない。
(*6)新マリエンブルクより下流のニェムナス河畔に、現在、ユルバルカス(Jurbarkas)という町があるが、ゲオルゲンブルク(Georgenburg)は、その町の西郊外にあるビシュピリュカイ(Bišpiliukai)と呼ばれる丘の上にあったらしい。なお、この時、ヴィタウタスは奇策を用いてゲオルゲンブルクの城内に入っている。
(*7)このとき、ヨガイラはなかなかヴィタウタスの説得に応じなかったという。この話はヴィタウタスとヨガイラの性格の違いを示唆していて面白い。
(*8)ドイツ騎士団の大砲が強力で、リトアニア軍の投石器など木っ端微塵に打ち砕いたといわれている。
(*9)城がリトアニア軍に包囲されていたから、騎士団総長の軍はその外側まで達しても城内と連絡もとれず、包囲網を突破するにはリトアニア軍の得意な野戦を勝ち抜かなければならなかったから、限られた食料や物資に頼って長期戦を戦うことは危険だと判断して撤退を決断したようだが、城内の守備隊は見殺しになった。リトアニア軍は包囲を解かず、城内の守備隊が疲弊するまで執拗に攻撃した。そして、城の周囲に薪を積んで火を放ち、火責めにしたという。しかし、ヨガイラは、城を明け渡して投降してきた騎士たちを寛大に扱ったので、騎士団側の犠牲者はさほど多くなかったという。
(番外1)これでカウナスとカウナス下流のニェムナス川沿いのドイツ騎士団の城の幾つかがリトアニアの手に戻り、優位に立ったヨガイラはドイツ騎士団との和平交渉を試みるが、ドイツ騎士団は屈せず、両陣営の戦いはこの後も続いた。しかし、これ以後しばらくの間は、ヨガイラとヴィタウタスが敵対して争うことなく、両者の性格の違いと立場の違いがもたらす微妙な力関係の中で、駆け引きをしながらも、互いに協力してゆくことになる。
(番外2)冒頭で述べた「ポーランドのクフィジン(Kwidzyn)にあるマリエンヴェルダー城」は、ドイツ騎士団がポーランド北部に入植した直後の1233年に築いた砦がはじまりで、その後、1322年から47年にかけて本格的な城が建設されたものが現在の城である。また、クフィジンには1243年にドイツ騎士団によって司教座が置かれ、ポメザニア地方の首都として16世紀半ばまで栄えた。現在でも、クフィジンのマリエンヴェルダー城と司教座のあった大聖堂の威容は多くの観光客をひきつけているが、特に、この城のDanzker(またはDansker)と呼ばれる、いわゆる「便所の塔」(latrine tower)とそれを城につなぐ高い回廊は見物だ。Danzkerは当時のドイツ騎士団の城によくある付属建物だが、これは、その典型で19世紀に復元されたものだ。
(2018年12月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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