2019年01月01日

秋山稔兄の思い出/大橋 康隆

 秋山稔兄が一昨年12月に他界され、一年以上が経過した。ご子息から電話を頂いたが、私は病気のため葬儀にも参列できず、林兄に電話して教養学部理科一類2B組の同期生に連絡してもらった。更に電気科の同期生には、クラスブログの高橋編集長から連絡してもらった。

 顧みると、秋山兄は大学時代から私にとって先輩の様な存在であった。駒場時代から秋山先生と呼ばれていた。秋山兄と親しくなったのは、私が1962年の秋にフルブライト留学から帰国して、日本住宅公団に応募していたが、ようやくクジが当たり国立富士見台第一団地に入居したからである。岡山から上京して以来住居を幾度か変更していたが、やっと安定したので3才年下の妹は、結婚して都内に住むことになり、母も勤務は趣味ではないと言って、勤めを辞めた。その頃、秋山夫妻が近くに住んでおられたのである。暇になった私の母は、大正3年生まれで若く、屡々秋山夫妻宅を訪れ、秋山夫人と女学生気分で仲良くなったらしい。間もなく秋山夫妻は米国の大学に赴任され、帰国後は都内に転居された。
 その後、国立市在住時代のよしみで、秋山兄の後輩の妹である家内を紹介してもらい、同期の友人では最後に結婚することになった。
 1973年の夏、秋山御一家を招待した時、(写真1)を撮影した。その後は幾度かこちらからお訪ねすることになった。
写真1秋山御一家招待.jpg
写真1秋山御一家招待

 秋山兄の業績の全貌は、私などには計り知れないが、電子情報通信学会誌Vol.101 No.6 (平成30年6月)に田中良明教授が追悼抄「研究の極意を教わった秋山稔さん」を書いておられるので参照して頂きたい。以下は、私が勤務していた頃の関係の話である。私は卒業後、NEC玉川事業所でアナログ通信の開発に従事していたが、米国留学から帰国後はデジタル通信の開発に従事した。この頃、NEC伝送事業部は尾佐竹研に委託研究をお願いしていたので、時々研究報告書を受け取りに東大を訪れ、秋山兄に会う機会ができた。その後、光通信の開発に従事したが、1984年秋に、通信の自由化で、新しく設立された日本高速通信(株)に6年半出向した。1986年9月から約2年間郵政省で「電気通信ネットワークの発展に伴う番号の在り方に関する研究会」が開催され、秋山兄が委員長に就任し再び会う機会ができた。

 1997年6月にNECケーブルメディア(株)を定年退職した私は、同期入社の志田兄(精密機械)に誘われ、NEC OB パレット会に入会して油絵を習い始めた。秋山兄は油絵の展示会に、忙しい中でも都合をつけて訪れてくれ、得意なカメラで写真を撮影して、色々批評などを添えて郵送して下さった。(写真2)写真2 パレット会展.jpg
写真2パレット会展
 その後しばらく連絡が途絶え、電話しても応答がなく、止む無く手紙を送付した。かなり経過してから電話があり、奥様が亡くなったことを知って驚いた。秋山兄も入院中であり、落ち着いたら電話するとのことだった。ようやく新居から電話があり、取り急ぎ訪れ、奥様の位牌を拝ませて頂いた。秋山兄は入院した経緯や、奥様と海外旅行をした時の話などをして、思ったよりは元気そうだったので安心した。

 ところが、一昨年10月末に、私が前立腺肥大による尿閉となり、バルーン・カテーテルを装着され、外出出来なくなった。12月に秋山兄の訃報に接し、葬儀にも参列できず誠に残念である。長年のご厚誼に心から感謝し、ご冥福をお祈りいたします。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 大橋レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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