2019年01月16日

リトアニア史余談84:クレヴァの決議/武田 充司

  1385年8月、クレヴァの城(*1)でポーランドの代表団を迎えたリトアニア大公ヨガイラはその後のリトアニアの歴史を規定する重大な決議をした。リトアニアではそれを「クレヴァの決議」と呼ぶが、ポーランドでは「クレヴォの合同」という(*2)。

  話は少し遡るが、1382年9月にポーランド王ルドヴィク1世ことハンガリー王ラヨシュ1世(*3)が急逝した。これが発端となって、アンジュー・ハンガリー家(*4)の支配に不満を募らせていたポーランドの貴族たちの間で王位継承問題が浮上した。しかし、ラヨシュ1世は死の直前に娘のマリアをハンガリーとポーランド両国の王位継承者に指名していたから、ポーランドの一部の貴族たちは、11歳のマリアの婚約者でボヘミアのルクセンブルク家のジギスムント(*5)をポーランド王として戴冠させようとした。このとき、ジギスムントは14歳であった。しかし、これに反対する勢力がマゾフシェ公シェモヴィト4世(*6)を擁立して争った。そこで、こうした国内の混乱を収拾するために、首都クラクフを中心とするマウォポルスカ(*7)の貴族たちは、既にハンガリー女王となっていたマリアの妹ヤドヴィガをポーランド王に迎えようとした。しかし、ヤドヴィガがハプスブルク家のオーストリア公レオポルド3世の長男ヴィルヘルムと婚約していたことなどから、交渉は難航した(*8)。しかし、結局、1384年10月15日、僅か10歳と7か月のヤドヴィガがクラクフのヴァヴェル宮殿で「ポーランド王」として戴冠した(*9)。

  ところが、それで全てが終ったわけではなかった。ポーランドの貴族たちはリトアニア大公ヨガイラをヤドヴィガの婿に迎え入れることによってリトアニアとポーランドの合同を実現しようとした。それは彼らの野心を満たす魅力的な構想に見えた。ドイツ騎士団との抗争に疲れたリトアニアにとっても悪い話ではなかった。ポーランド王位に野心を持っていたヨガイラは寧ろそれを歓迎したようだ。しかし、それがリトアニアの将来にどのような影響をおよぼすかをヨガイラは十分理解していたのであろうか。

  クレヴァにおいて凡そ以下のようなことが決議された。先ず、リトアニア大公ヨガイラは、ヤドヴィガと結婚してポーランド王になり、キリスト教徒(カトリック)に改宗すること、そして、すべてのリトアニア人をカトリックに改宗させ、リトアニアをカトリックの国にし、ポーランドに併合すること、ポーランドが失った領土の回復に協力すること、などであった。
  ヨガイラを筆頭に、ヨガイラの弟たち、スキルガイラ、カリブタス、レングヴェニス、そして、ヨガイラの従兄弟ヴィタウタスが決議書に署名した。のちに、この文書が根拠となってリトアニアとポーランドは1385年に統合されてひとつの国になったという見解が生まれた。しかし、実際には、このとき同君連合ができたにすぎなかった(*10)。

〔蛇足〕
(*1)現在のクレヴァ(Kreva)はリトアニアの首都ヴィルニュスの南東80kmほどのところにあるベラルーシの町だが、14世紀にリトアニアのゲディミナス大公がそこに城を築いて以来、リトアニアが支配していた。彼の死後、その城と領地は息子のアルギルダスに受け継がれ、さらに、アルギルダスの子ヨガイラへと受け継がれていた。なお、1382年にヨガイラが叔父のケストゥティスとケストゥティスの息子ヴィタウタスを監禁したのもこの城であった(「余談81:ケストゥティスの最期」参照)。
(*2)クレヴァはリトアニア語でクレヴァ(Krėva)、ポーランドではクレヴォ(Krewo)という。「クレヴァの決議」は“the Act of Krėva”の訳で、「クレヴォの合同」は“the Union of Krewo”の訳である。
(*3)ハンガリー王ラヨシュ1世(T Lajos:在位1342年〜1382年)は、ピアスト朝最後のポーランド王カジミエシ3世(大王)の姉とハンガリー王カーロイ1世の間に生まれた子で、カジミエシ3世が世継ぎを残さず亡くなったあと、ポーランド王ルドヴィク1世(在位1370年〜1382年)としてポーランドを統治した。したがって、この間、ハンガリーとポーランドは同君連合であった。
(*4)アンジュー・ハンガリー家は、アールパート朝が断絶したあとシチリア・アンジュー家のカルロ・ロベルトがカーロイ1世(在位1308年〜1342年)としてハンガリー王になったときから始まったが、このアンジュー家はフランス王ルイ9世の弟でシチリア王となったシャルル・ダンジューにはじまるカペー・アンジュー家である。
(*5)ジギスムンントはボヘミア王カレル1世(=神聖ローマ皇帝カール4世)の次男で、のちにハンガリー王(在位1387年〜1437年)となり、また、神聖ローマ皇帝となって、コンスタンツ公会議を支持して教会大分裂時代を終らせた。
(*6)シェモヴィト4世はマゾフシェ系のピアスト家一族であったから、彼には大義名分があった。このとき、リトアニア大公ヨガイラはシェモヴィト4世を支持してポーランドに出兵しているので、この頃から彼はポーランド王位継承問題に関心があったのだ。
(*7)ジギスムント擁立派もシェモヴィト4世派も、ともにヴイェルコポルスカ(大ポーランド地方)の貴族たちであったから、首都を擁するマウォポルスカ(小ポーランド地方)の貴族たちがハンガリーの支援を得てこの内紛を終息させようとした。このとき、マウォポルスカの貴族たちとヨガイラが接触していた可能性がある。
(*8)ヤドヴィガ(Jadwiga)の祖母(ラヨシュ1世の母)エルジュビェタ(Elżbieta)はカジミエシ3世(大王)の姉であるから、ヤドヴィガは女系ではあるがピアスト朝の血を引く人間だった。しかし、既に婚約していたから交渉は難航した。実際、彼女がポーランド王として戴冠した翌年に、婚約者のヴィルヘルムがクラクフにやって来て、ヤドヴィガとの結婚を迫ってヴァヴェルの宮殿に入り込んだというスキャンダルまがいの事態が発生している。ヤドヴィガも幼い時に1年ほどウイーンの宮廷で暮らしていたので、彼らは幼馴染であったようだ。
(*9)ヤドヴィガは「王」(Rex)として戴冠したのであって、「女王」(Regina)ではないとされている。
(*10)クレヴァの決議を記したオリジナルと思われる文書が発見されたのは1835年で、クラクフの大聖堂参事会の保管古文書の中から見つかったが、この文書が発見されるまでは、「クレヴァの決議」に示されているようなリトアニアとポーランドの政治統合については何も知られていなかったという。これほど重要な事実について歴史家や年代記作家が長い間まったく触れていないというのはどういうことなのか。また、この文書がポーランド王室の保管古文書の中から見つかったのではないことも不可解だとする研究者もいる。ポーランドでは一般的に「クレヴォの合同」が支持されているが、リトアニアではこれを疑問視する専門家もいる。また、これは条約の体裁を整えていないから「クレヴァ条約」とは呼べないとも言われ、議論は続いているようだ。
(2019年1月 記)

posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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