2019年03月16日

リトアニア史余談86:キリスト教の国となったリトアニア/武田 充司

   1387年、リトアニアはキリスト教(カトリック)を国教とする国として歴史的な第一歩を踏み出した。しかし、それは性急な荒々しい第一歩であった。
 前年の春、クラクフで戴冠してポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとなったリトアニア大公ヨガイラは、その年の暮れ、多数のポーランド貴族と聖職者をともなってリトアニアに戻ってきた(*1)。そして、翌年(1387年)の2月17日、いわゆる、「ヨガイラの法令」を発して、リトアニアがキリスト教(カトリック)の国になることを宣言した。

 そのあと、首都ヴィルニュスにあった神殿(*2)は取り壊され、神殿に祭られていた雷神ペルクーナス(*3)の像は引き倒され、永遠に燃える聖なる火は消された。神聖な樫の木の森も伐採された。そして、バルト族の伝統的信仰に根ざす各家庭の蛇(*4)も殺された。
   やがてヴィルニュスに集まってきたリトアニア人貴族たちに対する洗礼がはじまった。ヴィルニュスの役人たちも洗礼をうけた。一般大衆がこれに続いた。このとき、リトアニアの川では、大勢のリトアニア人が、ほとんどカトリックの教育もうけずに、集団で洗礼をうける光景が見られた。ロシアの年代記によると、この年の初めの数か月で、ヴィルニュスの人口の半数が洗礼をうけてカトリックになったという。残りの半数は既にカトリックであったか、正教徒であったようだ。

 首都ヴィルニュスにおけるこのような集団改宗が一段落したこの年の後半になると、ヨガイラ大公はポーランド人司祭を伴ってリトアニア各地を巡幸し、住民たちのカトリックへの改宗を促した。このとき、殆どリトアニア語を知らないポーランド人司祭たちは、通訳を使ってカトリックの教えを民衆に説いたが、ヨガイラ自身もそうした通訳の役割を買って出たといわれている。しかし、多くのリトアニア人一般大衆は、カトリックの教えなど理解せずに、半ば強制的に洗礼をうけさせられた。

   一方、これと並行して、ヨガイラはポズナンの司教ドブロガスト(*5)を特使としてローマ教皇のもとに派遣し、ヴィルニュス司教区の創設と、初代ヴィルニュス司教としてシレト(*6)の前司教アンヂュジェイ・ヤスチュシェンビェツ(*7)の叙任を請願した。そして、その年のうちに、ヨガイラはヴィルニュス司教区の下に7つの教会区(小教区)を設置することを決め、ヴィルニュス司教区開設の基礎つくりをはじめた。さらに、ヨガイラは取り壊されたヴィルニュスの神殿跡に大聖堂を建立する準備にとりかかった。しかし、この大聖堂が完成するのはヴィタウタス大公の時代になってからで、これが現在のヴィルニュスの大聖堂のはじまりである(*8)。

〔蛇足〕
(*1)「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。
(*2)この神殿はゲディミナス大公(在位1316年〜1341年)の時代に建てられたものである。「余談66:ゲディミナス大公のつくったヴィルニュス」参照。
(*3)「余談41:雷神ペルクーナス」参照。
(*4)この蛇はリトアニア語でパギリニス(Pagirinis)というが、英訳語では ”grass snake”、即ち、ヤマカガシである。昔のリトアニアのバルト族は、この蛇を暖炉の火を守る神の化身とみていた。日本でも、古代信仰の根源は蛇で、蛇は祖霊であり、ヤマカガシの「カカ」は蛇を意味する古語である(吉野裕子著「山の神」:講談社学術文庫 参照)。
(*5)ポズナン(Poznań)はベルリンの東方約250kmに位置するポーランドの古都(「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(3)参照)。ドブロガスト(Dobrogast)のポズナン司教在位は1384年から1395年まで。
(*6)シレト(Siret)は、現在のルーマニア北東隅のウクライナとの国境近くの都市である。シレト川を望む丘の上に1220年頃にドイツ騎士団が築いた城塞が起源で、当時はハンガリー領内の都市であった。
(*7)アンヂュジェイ・ヤスチュシェンビェツ(Andrzej Jastrzębiec:1398年11月14日没)はアンヂュジェイ・ヴァシルコ(Andrzej Wasilko)とも呼ばれるが、以前、短期間ではあるが、リトアニアで布教活動をした経験があり、その後、ハンガリー王ラヨシュ1世の母でありポーランド王カジミエシ3世の姉であるエルジビェータ(Elżbieta Łokietkówna)の聴罪司祭となった人である。教皇ウルバヌス6世(Urbanus Y:在位1378年〜1389年)は、翌年(1388年)3月12日、「ヨガイラの法令」によるリトアニアの改宗を正式に認め、ヴィルニュス司教区の設立と、それに伴う聖堂の建設を許可した。そして、アンヂュジェイ・ヤスチュシェンビェツが初代ヴィルニュス司教(在位1388年〜1398年11月14日)となった。
(*8)この大聖堂が完成したのは15世紀はじめといわれているが、それ以後、火災にあって幾度も建て直され、建築様式も変遷した。18世紀中頃までは、2つの塔をもつバロック様式の建物であったが、1769年に塔のひとつが暴風で倒壊した。それが契機となって、そのあと大改築のプロジェクトが始まり、現在のようなネオ・クラシック様式に改築された。
(番外1)リトアニアはヨーロパで最も遅くキリスト教をうけいれた国として知られている。当時のリトアニアは東西キリスト教世界の狭間に取り残された孤島のような存在であった。中世のリトアニアは正教世界との親和性が強く、西欧キリスト教世界とは多くの場合敵対関係にあったが、それでも、既にミンダウガス王(在位1251年〜1263年)の時代に、一旦、キリスト教(カトリック)をうけいれている(「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照)。しかし、それは定着せず、その後、ゲディミナス大公(在位1316年〜1341年)が西欧世界への仲間入りを考えてキリスト教を受容するかのような言動をしているが(「余談72:ゲディミナス大公と教皇ヨハネス22世」参照)、それ以上の進展はなかった。したがって、今回は「三度目の正直」のようなものであった。それまでのリトアニアは主として戦略的あるいは政治的な策としてキリスト教の受容を考えていたが、ヨガイラの場合、そうした伝統的思考も当然あったようだが、信仰の問題としても本気であったように思われる。それは、このあとの彼の言動のエピソードなどからも推測される。また、彼の信仰心の背景には、ロシア人正教徒であった彼の母ユリアナ(トヴェーリ公アレクサンドルの娘)の存在も無視できないのではなかろうか。
(番外2)キリスト教導入時の荒々しいやり方はリトアニアだけが特別であったわけではない。キエフ・ルーシのウラディーミル聖公が988年に正教を国教としたときもそうであった。また、ノルウェーのオーラヴ1世が995年頃にキリスト教を導入しようとしたときも神殿を破壊して土着の信仰を禁止したが、結局、この時は失敗している。
(2019年3月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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