2019年04月16日

リトアニア史余談87:同君連合下のリトアニア/武田 充司

 リトアニア大公のままポーランド王になったヨガイラは后ヤドヴィガのいるポーランドの首都クラクフの宮殿に居を移し、リトアニアには大公代行として実弟スキルガイラを任命して統治を任せた。
 しかし、名目的な統治者にすぎないスキルガイラに信望はなく、彼に忠誠を誓う貴族は少なかった(*1)。その一方で、ヨガイラと争って屈服したヴィタウタスの人気は高く、リトアニア国内に鬱積した不満がヴィタウタス支持に向う危険性があった(*2)。

 リトアニアの状況を憂慮したヨガイラは、1389年、リトアニアの首都ヴィルニュスにポーランド軍守備隊とともにポーランド人の長老を派遣して駐留させた(*3)。しかし、これが益々リトアニア人の反感をかい、事態を悪化させた。そこで、ヨガイラは、この年の5月、ルブリン(*4)においてスキルガイラとヴィタウタスの関係を調停しようとしたが、ヴィタウタスを一方的に説得してスキルガイラに臣従させようとしたから、話はこじれた。

 こうした状況の変化を見極めたヴィタウタスは、1389年の末、グロドノ(*5)を拠点に手勢を集め、首都ヴィルニュス攻略をめざして兵をあげた。しかし、この反乱は鎮圧され、ヴィタウタスは窮地に追い込まれた。
 窮したヴィタウタスは密かにドイツ騎士団総長に使者を送り(*6)、自分の家族すべてを人質としてドイツ騎士団に預けてポーランドと戦うことを条件に、ドイツ騎士団の支援を得ようとした。しかし、以前ヴィタウタスに裏切られて苦い経験をしたドイツ騎士団総長は動かなかった(*7)。そこでヴィタウタスは重臣イヴァン・オルシャンスキを団長とする密使を派遣し、さらなる領土的譲歩を確約してようやくドイツ騎士団の支援をとりつけた(*8)。そして、1390年1月、マゾフシェのリツクにおいて両者の間で条約が締結され、ヴィタウタスの妻アンナ、娘のソフィア、弟のタウトヴィラスとジギマンタス、妹のリムガイラ、そして、イヴァン・オルシャンスキも人質としてドイツ騎士団のもとに預けられた(*9)。

 しかし、その頃、ヨガイラの差し向けた軍勢がヴィタウタスの支配地域であったポドラチアの幾つかの城を落し、本拠地となっていたグロドノを包囲した。そして、数週間におよぶ激しい攻防ののち、同年(1390年)4月、ついにグロドノも陥落した。ますます苦境に立たされたヴィタウタスであったが、不幸中の幸いというべきか、先に結んだ条約が効力を発揮してドイツ騎士団の支援をうけ、幾つかの小規模な戦闘をくり返しつつ反撃に転じることができた。こうして、ポーランドと同君連合を形成したばかりのリトアニアは、再びヨガイラとヴィタウタスという従兄弟同士の争いにドイツ騎士団が軍事介入するという内戦の舞台になってしまった。

〔蛇足〕
(*1)スキルガイラ(Skirgaila)は1353年か4年の生れで、ヨガイラは1352年生れ(1362年生ともいわれるが)なので、この2人は年齢が近く、よく協力して事に当たっていた。特に、ヨガイラはスキルガイラを片腕として重用していた。その点では、彼の父アルギルダスが直ぐ下の弟ケストゥティス(ヴィタウタスの父)と協力していたのと似ている。
(*2)ヴィタウタスは父の代からリトアニアの旧都トラカイを拠点に、リトアニア西部、すなわち、ジェマイチヤ地方を基盤として従兄弟のヨガイラと争っていたが、一旦は和解し(「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照)、ヨガイラからリトアニア南部のグロドノ、ブレスト、そして、ポドラチアを所領として与えられていた。しかし、トラカイはスキルガイラの所領となったままだった。要するに、ポーランドとリトアニアはヨガイラとスキルガイラ兄弟で分担して支配し、厄介な彼らの従兄弟ヴィタウタスは中央から離れた旧キエフ・ルーシとの緩衝地帯に左遷され封じ込められた格好になっていた。
(*3)この時、ポーランド軍守備隊とともにやって来た長老は、ポーランド人貴族のクレメンス・モスコジェフスキ(Klemens Moskorzewski)であったが、これでは火に油を注ぐようなものであった。
(*4)ルブリン(Lublin)はワルシャワの南東約150kmにあって当時のポーランド東方交易上の重要都市であったが、ヴィタウタスの所領ポドラチア(Podlachia / [ポ] Podlasie)の直ぐ南に位置している。
(*5)グロドノ(Grodno)はヴィルニュスの南西約140kmに位置する現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)。リトアニア語ではガルディナス(Gardinas)という。
(*6)このときの使者マルクァード・フォン・ザルツバッハ(Marquard von Salzbach)は以前ヴィタウタスがドイツ騎士団を裏切って戦ったときにリトアニア側に捕らえられ、その後、ヴィタウタスの信任をえたという面白い経歴のドイツ騎士団の騎士で、これ以後も、この人物は両者の間で重要な役割を演じる。
(*7)「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照。なお、この時のドイツ騎士団総長コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタイン(Konrad Zöllner von Rothenstein:在位1382年〜1390年)はこのあと直ぐに亡くなる。
(*8)このとき、ヴィタウタスは前回ドイツ騎士団の支援をうけたときに合意した「ネヴェジス川以西のジェマイチヤとカウナスをドイツ騎士団に譲渡する」という約束(「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照)の履行を迫られ、あらためて確約させられた。
(*9)イヴァン・オルシャンスキは、リトアニア語ではヨナス・アルシェニシュキス(Jonas Alšeniškis)といい、ヴィタウタスがクレヴァの城を脱出してドイツ騎士団の庇護を求めたときも(「余談81:ケストゥティスの最期」参照)、ヴィタウタスとともにドイツ騎士団のもとに留まった忠君の士である。なお、彼の妻アグリピナ(Agripina)はヴィタウタスの妻アンナ(Anna)と姉妹である。
(2019年4月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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