2019年08月16日

リトアニア史余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり/武田 充司

 1392年から1430年までのヴィタウタス大公の時代はリトアニアが頂点を極めた時代であるとともに、それは歴史的な分水嶺となった時代でもあった。
   リトアニアはこの時代に画期的な変貌をとげ、ゲディミナス大公以来築かれてきた政治と社会の姿は一変した。しかし、この時代はバルト族の独立国家リトアニアの最後を飾る時代となった。これ以後、国家の衰退と崩壊はこの時代の起点に組み込まれた宿命的な時限装置によって確実に進行していった。

 1392年夏、リダ(*1)近郊のアストラヴァスの館でヴィタウタスとヨガイラは密かに会談した。これはヨガイラがヴィタウタスに差し向けた密使ヘンリクの働きによって実現したものだった(*2)。このとき2人の間で取り交わされた約束によって、トラカイ公領とヴィタウタスの父ケストゥティスが所有していたその他の領土に若干の新領土を加えたものがヨガイラからヴィタウタスに返還された。そして、ヴィタウタスは、ヨガイラの代理として、リトアニア大公を名乗り、首都ビルニスにおいてリトアニア全土を統治することになった(*3)。
   こうして、ポーランド王ヨガイラによるリトアニア統治とそれに伴う宿痾のような内紛が終り、ヴィタウタス大公の時代が始まったのだが、ヴィタウタスが死んだならば、その領土はすべてヨガイラ、あるいは、ポーランド王ヨガイラの正統な後継者に、返還されることが決められていた。すなわち、リトアニア大公ヴィタウタスは、ポーランド王ヨガイラの家臣として、彼の領土の統治を一代限りという条件で任されたのだった。

   この会談によって取り決められた内容は、会談の行われた場所の名をとって「アストラヴァス条約」と呼ばれているが(*4)、この条約はポーランド語とリトアニア語でそれぞれ別に作成され、ポーランド側からはヨガイラとヤドヴィガ夫妻、リトアニア側からはヴィタウタスとアンナ(*5)夫妻が揃って調印したという。
   しかし、このときの取決めが明瞭に記されている文書は、それから9年後の1401年に結ばれた「ヴィルニュス・ラドム協定」が最初のもので(*6)、それ以前の文書で「アストラヴァス条約」に関して記述したものはこれまでのところ見つかっていないという。

   とにかく、こうしてリトアニア大公となったヴィタウタスであったが、当時のリトアニアはゲディミナス家一族の者によって分割支配される小公国の集合体のようなもので、中央集権的な国家としての体を成していなかった。この雑然とした状態のリトアニアは殆ど権力の空白地帯であった。そこで、ヴィタウタスはリトアニア大公となるや否や強権を振って「ヴィタウタスの改革」とも呼ぶべき荒療治に着手し、権威の確立を急いだ(*7)。

〔蛇足〕
(*1)リダ(Lida)はヴィルニュスの南方約90kmに位置する古い都市で、現在はベラルーシ領内にあるが、当時はリトアニア領であった。
(*2)ヨガイラがヴィタウタスと和解するために差し向けた密使ヘンリクの活躍よって、ヴィタウタスはドイツ騎士団と袂を分かち蜂起した。これを機にヴィタウタスとヨガイラの協力がはじまった。「余談90:ヴィタウタスの妹リムガイラの結婚」参照。
(*3)しかし、依然としてヨガイラはリトアニアの最高統治者として、ヴィタウタスより上位に位置していることを示すために、ヴィタウタスの「大公」(Grand Duke)に対して、ヨガイラは「最高君主」(Supreme Prince)を名乗った。
(*4)アストラヴァス(Astravas)はリトアニア語で、ポーランドでは「オストルフ(Ostrów)条約」と呼ばれている。なお、この館のあった場所は確認されていないが、リダの西方10数kmの地点を北から南に向って流れているズィトヴァ川(the Dzitva:ニェムナス川の支流)の近くにあったと推測されている。
(*5)このとき、ヴィタウタスの妻アンナ(Anna)が重要な役割を果した。会談するヴィタウタスとヨガイラの人柄や性格をよく知っていたアンナは、敬虔なカトリックの信徒として心から2人の和解を願い、彼らが再び対立して争うことのないよう注意深く2人の仲を取り持ち、仲介の労をとったという。そして、これ以後、彼女は益々重要な存在となって陰に陽に大きな影響力を発揮した。
(*6)1400年末にヨガイラとヴィタウタスがヴィルニュスの南西約150kmに位置する現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna:リトアニア語ではガルディナス / Gardinas)で会談し、過去にリトアニアとポーランドの間で合意されていた諸事項を再確認したと言われているが、翌年(1401年)に2人の合意内容が文書化され、リトアニアとポーランド両国で公布された。しかし、その文書は3種あったという。第1は、ヨガイラがポーランドで発布したもの、第2は、ヴィタウタスとリトアニアの貴族たちがヴィルニュスで発布したもの、第3は、ポーランド王国貴族議会がラドム(Radom:ワルシャワの南方約90kmにあるポーランドの都市)で発布したもので、この第3のものが現在「ヴィルニュス・ラドム協定」と呼ばれているが、ポーランド語で “Unia Wilensko-Radomska” となっていて、これは「ヴィルニュス・ラドムの合同」(unia=合同、連合)と訳せる。しかし、リトアニアでは “Vilniaus-Radomo Sutartis” と呼ばれ、“sutartis”は英語のagreementやtreatyあるいはpactに対応する語であるから、ここでは「ヴィルニュス・ラドム協定」とした。
(*7)アストラヴァス条約の縛りがあったから、リトアニア大公としてのヴィタウタスの立場も弱く、権威の確立も急がれた。たとえば、ヨガイラの実弟のひとりカリブタス(Kaributas)は、現在のウクライナの首都キエフの東北東のチェルニゴフとノヴゴロド・シヴェルスキ地域を支配し、正教徒としてドミートリイ・コリブトを名乗ってノヴゴロド・シヴェルスキ公となっていたが、当初から長兄ヨガイラを支持し、「アストラヴァス条約」の成立後もヴィタウタスの支配を認めず抵抗した。そこで、1393年初頭、ヴィタウタスはリダ近郊の戦いでカリブタスを屈服させ、領地を没収して幽閉した。しかし、ヴィタウタスはその後間もなくカリブタスを釈放し、現在のウクライナ西部のズバラジとヴィンニツァとブラツラフを与えている。このように、ヴィタウタスは「領地替え」や「領地の没収」を強行し、逆らう者は武力によって容赦なく追放した。しかし、「ヴィタウタス改革」の核心は、伝統的既得権を手放そうとしない守旧派の社会を解体し、キリスト教(カトリック)に改宗してヴィタウタスに忠誠を誓った人々を血統や門閥にとらわれず抜擢し、新たな貴族階級を育成したことにある。そして、そうした新興勢力を基盤に中央集権体制を築いたが、それがリトアニアのポーランド化を促進した。
(2019年8月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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