2019年10月01日

半世紀前の記録から:南アフリカ(3)・ヨハネスブルグ/小林 凱

  ヨハネスブルグは南アフリカの最大の都市で中央高原の北寄りに位置し、当時は国際航空便は殆どが此処に飛来して乗り継ぎでケープタウンやダーバンなど国内各都市に向かう乗客が多く、交通と経済の中心であった。私も此処を滞在の拠点として大半の用事を済ませた。
  Fig1はオフイス街であるが、此処でもすぐ背後に旧い金鉱跡が見える。Fig1.JPGFig2.JPG
Fig1Fig2
  Fig2はHillbrowと呼ばれる地域で、商店やレストランが多いいわゆる繁華街であるが後でまた触れます。市内はトロリーバスが頻繁に走っていた。

  11月のヨハネスブルグは毎日晴天が続き、高原(約1,000m)らしい気持ちの良い季節であった。歩くと街路樹に美しい藤色の花を房になって咲かせる木を見かけて、尋ねると「ジャカランダ」の花との事。この木の原産地は別の大陸の様だが、南アフリカの気候に合ったのか見事な花を付けていた。私は見事と言うだけで花の細部は忘れていたが、有難い事に先般(2019/6)高橋さんがこのブログの季節の花便りに紹介して下さって、この様な花であったかと改めて懐かしく拝見した。この花は「のうぜんかずら」の親戚の由で、のうぜんかずらは丁度今(8,9月)が花期で家の近くでも良く見かけます。長い年月の変化の中で花の色が夫々橙色と藤色に分かれた外、樹形にも違いがあるが個々の花の形はそっくり残っている様です。
  近年日本から南アフリカへのツアーも増えていて、ネットで見るとジャカランダの花が咲く季節のツアーでは、ビクトリアの滝を見物後次の目的地ケープタウンに向かう途中、乗り継ぎでヨハネスブルグに立ち寄る旅程がある時、首都のプレトリアに案内してジャカランダの花を見物するツアーがあった。プレトリアはヨハネスブルグから北へ数十キロの所で、私も仕事で数回訪れたが道路も良く車ですぐ行けて、仕事以外にツアーでの時間調整にも手頃な場所です。私はジャカランダの花はヨハネスブルグで見ただけで、プレトリアまで見物に行った訳ではないが中々壮観の様です。空港のあるヨハネスブルグでは治安の悪化から旅行者が街を歩いての観光には不向きとなり、代わってプレトリアでは街路樹の整備に努めた結果がこの様になったのかと推測しています。

  一人旅であったから、滞在中の夜は殆どホテルの部屋で一人で過ごして居た。部屋のラジオは圧倒的にビートルズを流して居て、これは日中車で移動する時も同じだった。また宿のレストランでは毎日の食事には大きすぎて、徒歩圏内に手頃な中華料理店を探して一品料理を摂るパターンに収斂した。当時この町ではこの程度の夜間の一人歩きは十分可能であった。
  この様な日々の中で、当地で上映中の映画ドクトルジバゴが話題になって居た。事務所の中でも見て来た人から、あれは良いからと勧められて私も夕食後に映画館へ廻ることになった。この映画はDavid Lean監督の作品で、日本では1967年に封切られヒットしたからご覧になった方も居られると思う。更にモーリス ジャールの作曲によるサウンドトラック(ララのテーマ)も大ヒットしたから、映画の筋は忘れてもこの旋律は記憶して居られる方も多いと思います。
  Dr.Zhivagoの医師にはオマー シャリフ、相手役のララにジュリー クリスティーの配役で、話の詳細は省くとしても3時間を超える大作だったから、夕食後に入場した映画の終了は可成り遅くなった。夜更けのヨハネスブルグの街をホテルへ一人歩きながら、今見たばかりの映画のシーンを思い出していたが、一面の雪と氷に覆われたロシアの大地の印象が圧倒的であった。ただその中で最後の幾つかのシーンに映画の製作者が見せたロシア(当時はソ連)への惻隠の情を感じた様に思えた。
  それは革命と内戦の混乱の時期から抜けて、若い世代がダムで働くシーンが次への希望を示唆する様に思えて印象に残った。私は1957/8年に米国に住んで居たが、その時期は冷戦の真っただ中で、しかもロシアがスプートニクで宇宙に先駆けた事が米国に強いショックであった。何としても負けるものかと言った意識を随所に見られたが、それが10年後になると競争相手にゆとりの感情を示したのは、冷戦には優位に立ったと思っているのかと勝手な推察をした事を覚えて居ます。(しかしベルリンの壁が解放されるのは、それから23年も後の1989年になるが、、、)

  当時の南アフリカはアパルトヘイト制度下にあった。私の様な外国人旅行者はこの問題には慎重に向き合って、トラブルを生じない様に過ごす事が大切と思い、私自身は滞在中に不愉快な思いをすることは無かった(しかし常態的に緊張を感じていた様な気がしますが)。またこうした社会問題のある所では、常に礼節を以て他に接する事と、不用意な好奇心で行動しない事が大切だと思った。
  この町には多くの公園があってその小径は日々よく通った。 公園は良く手入れされて各所に緑色の休憩ベンチが置かれて居たが、その背もたれに小さなシールが貼られて黄色で "Europeans Only"と書かれていた。(Fig3)Fig3.JPG
Fig3

  この町のほぼ中央に南アフリカ国鉄の中央駅がある。毎朝の通勤時には他の居住区に住む大勢の人たちが、通勤列車でヨハネスブルグ駅に来て市内の職場に散っていく。この通勤時間帯が過ぎると駅の周辺はひっそりと静まりかえる。私はその静かな時間帯にこの駅を一度覗いて見た事がある。そこは私たちが日頃見慣れた、沢山の人が行き交う大都市の中央駅とは全く様相が違っていた。この駅はヨーロッパに多い終着駅タイプでは無く、通過駅形式で多数のホームが並んでいた。駅舎は巨大な鉄骨で高い天井の他はがらんとして居た。私はその頃流行ったSF小説のテーマにある近未来のジャンルで、そこでは文明の進歩が行き詰って都会では悪化した治安の中で人々が暮らすシーンを何故か連想した。
  更に奥に進もうとすると何か寒い風が吹いた様に感じて急いで駅を後にした。後日事務所の現地の人と昼食を取りながらこの話をすると、その人は黙って聞いた後、一言 "Watch your steps!"と言われた。

  1991年、南アフリカではGroup Area Actが廃止され、アパルトヘイトは公式に解消した。この時の対応は南アの国内では様々だったが、残念な事に最大都市のヨハネスブルグではそれがまずいプロセスを辿った様だ。
  居住区分がなくなると、それ迄市内での居住が禁止されていた近隣の人達が大挙してなだれ込み、加えて内戦で混乱した他のアフリカ諸国からの移住民(?)でこの町の人口は数倍に膨れ上がった。一方多くの企業や機関はそれまで居たビルを放り出して市外や他所へ移って行った結果、この街の治安は大幅に悪化した。此処から先は統計値に自信が無いので参考までだが、2007年に此処で起きた殺人は1697件、10万人当たり43件で大変危険な地域となった。なおここから推定される対象人口は400万人にもなる。(以前は100万人にいっていなかったと思う。)しかしこの数は2016年には29.4件/10万人に減少して、大きく悪化した過渡期の治安が時間を経て好転した様に見える。勿論絶対値はなお遥かに高いが;日本は1億二千万人で2015年の発生件数は約一千、ちなみにOECD諸国で治安の一位はシンガポール、二位はルクセンブルグ、三位に日本。
  始めに紹介したHillbrow地区は70年代辺りから同性愛者が集まる中心となって、その傾向はGroup Area Actとは無関係に続いていると聞いた。治安との関連は良く判らない。

  南アフリカでは以前からその国鉄が誇りとする豪華列車「Blue Train」がこの国を縦断する様に走っている。日本のTV旅番組でも紹介され、美人のレポーターが旅人となって素晴らしいサービスと車窓に広がる景色を紹介していた。しかしこの列車を調べてみたら、首都のプレトリアを発車したブルートレインは間も無くヨハネスブルグに差し掛かるが、その中央駅では減速するだけで停車せず、駅を抜けると列車は再び次の街を目指して速度を上げて行く。
  ワールドカップを開催した国でも判らぬこと多いが、この街にも豪華列車が華やかに停車する日が早く来て欲しいと願っています。
 
  今回は少し重い話が重なった様です。次回はもう少し目先を変えたお話を紹介したいと思います。
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 小林レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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