2020年03月16日

リトアニア史余談98:ラツィオンシュの講和/武田 充司

 15世紀初頭のドイツ騎士団との戦いは武力衝突ばかりではなかった。互いに自陣営の聖職者や学者など、当時の知的エリートたちを総動員して、自分たちの行為の正当性を西欧キリスト教世界に訴え、理解と共感を得ようとする激しい政治的宣伝合戦でもあった。
 ドイツ騎士団は、リトアニアのヴィタウタス大公がキリスト教(カトリック)に帰依したといってもそれは形ばかりの偽装で、度々平和条約やその他の約束を破って攻撃をしかけてきた異教徒であるから、武力によって征服されるべきだと主張した。これに対して、リトアニアやポーランドの聖職者たちは、西欧キリスト教世界の一員となって真摯に新しい国家建設に励んでいる我らを妨害し領土を侵しているドイツ騎士団こそ、同胞である我らキリスト教徒を攻撃する背信の徒として断罪されるべきだと応戦した(*1)。

 こうした外交的宣伝合戦を見ていた教皇ボニファティウス9世(*2)はドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じたが(*3)、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこれを不服として、1403年、この禁令を撤回するよう教皇に迫った。こうして険悪な状況になったその年の夏、ヴィタウタウはドイツ騎士団に和平を提案して休戦交渉をもちかけた(*4)。ドイツ騎士団もこれを無視できず、この年の12月、両者の間で暫定的な休戦協定が結ばれ、翌年(1404年)の5月22日、ポーランドのラツィオンシュ(*5)において、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの同席のもとにドイツ騎士団との間で平和条約が調印された。

 この講和によって、先ず「サリーナス条約」(*6)が再確認され、ジェマイチヤをめぐってリトアニアとドイツ騎士団との間で紛争が起ったとき、ポーランドは介入しないことが決められた。そして、ポーランドはドブジン地方をドイツ騎士団から取り戻す代償として相応の金銭を支払うことになった(*7)。しかし、ダンツィヒについての合意は得られなかった(*8)。一方、ヴィタウタスが得たものといえば、ゲディミナス一族の者がヴィタイタスに反抗して内訌となった場合ドイツ騎士団は彼らを支援しないこと、そして、ヴィタウタスのルーシ諸公との戦いに対してドイツ騎士団は軍事的支援をするという約束であった。そして、ジェマイチヤを「サリーナス条約」に従ってドイツ騎士団領と認めることを再確認させられたばかりか、ジェマイチヤの反乱をドイツ騎士団が鎮圧するときにはドイツ騎士団に協力すること、リトアニアに逃亡するジェマイチヤ人をうけ入れないことまで約束させられた。

 この講和は老獪なドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの外交的勝利であり、ヴィタウタスとヨガイラにとっては得るところの少ない敗北的合意であった。しかし、これがヴィタウタスとヨガイラの結束を強め、彼らを新たな挑戦へと駆り立てたのだった。

〔蛇足〕
(*1)この当時、リトアニアやポーランドから、こうした主張やそれを裏付けるドイツ騎士団の数々の悪行を記した文書が頻繁に西欧キリスト教世界の聖職者や王侯貴族に送られていた。
(*2)当時は教会大分裂(大シスマ:1378年〜1417年)の時代で、ボニファティウス9世(在位1389年〜1404年)はローマの教皇である。
(*3)これに先立つ1395年、ルクセンブルク家のボヘミア王ヴァーツラフ4世(在位1373年〜1419年)にして神聖ローマ皇帝でもあったヴェンツェル(在位1378年〜1400年)がドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じている。
(*4)この年(1403年)、ヴィタウタスはスモレンスクを再度包囲して奪還しているが(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)、腹背同時の戦いを避けるためにもドイツ騎士団との争いをひとまず中断したかったのであろう。
(*5)ラツィオンシュ(Raciąż)はワルシャワの北西約85kmに位置するマゾフシェの都市である。
(*6)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)はドイツ騎士団領とポーランドとの境界線上に位置するマゾフシェの土地で、これまでも度々両者の間で支配権をめぐる争いがあったが、1343年の「カリシュ条約」でポーランド領として認められた。しかし、その後、借金の抵当としてドイツ騎士団の手に渡っていた。したがって、ポーランドがこれを取り戻すには相応の金銭を支払う必要があった。
(*8)バルト海に面する港湾都市ダンツィヒ(Danzig:現在のグダンスク)はハンザ同盟の拠点として繁栄していたから、ドイツ騎士団にとってもポーランドにとっても重要な都市であった。しかし、ここで問題になっているのはこの都市を中心とする「ポモージェ・グダンスキエ」(Pomorze Gdańskie)と呼ばれる地域全体の支配権であった。オーデル川東岸からヴィスワ川西岸に至るバルト海沿岸地域はポモージェ(英語でポメラニア〔Pomerania〕)と呼ばれ、昔からポーランド人と同じ西スラヴ族の一派カシュープ人の居住地域であった。この地域はオーデル川寄りの西ポモージェとヴィッスワ川寄りの東ポモージェに分けられ、西ポモージェは北ドイツに接しているため早くからドイツ化が進み、ポーランドよりもデンマークとの関係が深かった。一方、東ポモージェ(英語でポメレリア〔Pomerellia〕)は、ポモージェ・グダンスキエとも呼ばれ、ピアスト朝のポーランドが成立したあとも、この地域は土着の豪族によって支配されていて半ば独立していた。しかし、ドイツ騎士団領とポーランドとブランデンブルク辺境伯領に囲まれた形のこの地域は早くからドイツ人移民が入り込み、ポーランドとドイツ騎士団の勢力争いに場になっていた。ドイツ騎士団は本国との往来を確保する上からもこの回廊地帯の支配に固執したが、ポーランドもこの地域を固有の領土と看做して併合することに拘った。一方、この地域を支配する土着の豪族は強力な2つの勢力の間に立って狡猾なバランス外交を旨として生き延びてきた。しかし、13世紀末にヴィェルコポルスカ出身のポーランド王プシェミスウ2世がこの地域の公と同盟したため、この地域はポーランドの支配下に入った。しかし、1296年冬、ブランデンブルク辺境伯の放った刺客によってプシェミスウ2世が暗殺されると、この地域はポーランドの支配から脱した。そして、1308年9月、ドイツ騎士団はダンツィヒを占領してポモージェ・グダンスキエ全域を支配下に置いた。こうしてこの地域は実質的にドイツ騎士団領になったのだが、1343年、ポーランド王カジミエシ3世(大王)がドイツ騎士団と「カリシュ条約」を結んでこの地域がドイツ騎士団領であることを認めてしまった。それ以来ポーランドは幾度かこの地域の奪還を試みるが成功しなかった。ところが、「カリシュ条約」から602年経った1945年、第2次世界大戦が終ると、東ポモージェだけでなく西ポモージェもポーランド領として認められた。
(2020年3月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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