2020年04月16日

リトアニア史余談99:ウグラ川の協定/武田 充司 

 1406年、ノヴゴロドはヴィタウタスの軍事的圧力に屈して、ポーランド王ヨガイラの弟レングヴェニスを勤務公としてうけいれた(*1)。これはレングヴェニスにとって2度目のノヴゴロド勤務であった。
   彼は正教徒として洗礼名シメオンを名乗り、ドミートリイ・ドンスコイの娘マリアと結婚していたから、モスクワ大公ヴァシーリイ1世とは義兄弟の間柄であったが、このとき既にマリアは亡くなっていた(*2)。

   ヴィタウタスは既にスモレンスクを手中にしていたから(*3)、ノヴゴロドがリトアニアの影響下に置かれることはヴァシーリイ1世(*4)にとって看過できない事態であり、ヴァシーリイ1世とヴィタウタスの対立は抜き差しならない状況になってしまった。しかし、ヴァシーリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアであったから(*5)、岳父ヴィタウタスに対するヴァシーリイ1世の思いは微妙なものがあったはずだ。
   ところが、ヴァシーリイ1世はそんなことに頓着せず、軍を集めてヴィタウタスと戦う姿勢を見せた。ヴィタウタスもこれに応えて断固戦う決意で臨んだから、両軍は一触即発の状態で睨みあった。しかし、1408年秋、互いに戦うことなく和睦して軍を引いた。

   こうして危機はひとまず回避されたかに見えたが、その翌年(1409年)の5月、ヴィタウタスに臣従していたはずのシュヴィトリガイラが、多数の家臣を従えてモスクワのヴァシーリイ1世のもとに亡命した(*6)。これに報いるかのようにヴァシーリイ1世はシュヴィトリガイラに幾つかの領地を与えて厚遇したが、これを知ったヴィタウタスは直ちに大軍を率いてモスクワを目指した(*7)。ヴァシーリイ1世もこれに応えて出陣し、両軍はモスクワの南西200kmあたりを流れるウグラ川(*8)を挟んで対峙した。
   しかし、またしても両軍は戦うことなく和平の協定(*9)を結んで撤退した。このとき、ヴィタウタス率いるリトアニア軍は十分な食糧の準備もなく出撃したため、長期戦を避けて和睦したのだというが、一方、ヴァシーリイ1世も、前年(1408年)にキプチャク汗国のエディグ率いる大軍にモスクワを焼き払われ、領内は荒廃していたから(*10)、とうてい長期戦に耐えられる状態ではなかった。このとき結ばれた協定によってウグラ川がリトアニアとモスクワ公国の境界となり、モスクワはリトアニアの圧力に屈した。

   それから71年の歳月が流れた1480年の秋、リトアニアのカジミエラス大公と同盟した大オルダの汗アフマドは、ウグラ川を挟んでモスクワのイヴァン3世と対峙した(*11)。しかし、リトアニアの支援をうけられなかったアフマドは戦わずして撤退し、イヴァン3世に凱歌があがった。これがモスクワにウグラ川以西への進出を許すきっかけとなり、リトアニアとモスクワの力関係が逆転することになる。

〔蛇足〕
(*1)ノヴゴロドは、当時の専制君主を戴く国家とは異なり、ハンザ同盟都市として繁栄した商人国家で、軍事力はほとんど持たず、市民たちの「民会」によって統治されていた。そのため主として国防と公平な裁判の維持に限って外部から公を招いて君主とし、民会による強い制約のもとに極めて限定的な統治権を与えていた。これが勤務公(雇われ君主)である。昔はウラジーミル大公などリューリク朝の有力者を公に招いていた。たとえば、1240年の「ネヴァ川の戦い」でスウェーデン軍を敗ってノヴゴロドを救ったアレクサンドル・ネフスキーなども勤務公であった。しかし、リトアニアの力が強くなると、モスクワ公国とのバランスをとってリトアニアからも勤務公をうけ入れるようになっていた。
(*2)レングヴェニスはポーランド王ヨガイラの実弟で、軍事的才能に恵まれ、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイが亡くなった1389年から1392年までノヴゴロドの勤務公を務めていた。彼がドミートリイ・ドンスコイの娘マリアと結婚したのはそのあとの1394年で、マリアは1399年に亡くなっている。
(*3)「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照。
(*4)ヴァシーリイ1世はドミートリイ・ドンスコイの次男で(長男は早世した)、父のあとを継いでモスクワ大公(在位1389年〜1425年)となった。
(*5)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
(*6)ポーランド王ヨガイラの実弟シュヴィトリガイラは従兄弟のヴィタウタスを認めず、度々問題を起していたが(「余談97:ジェマイチヤの反乱」参照)、この当時はヴィタウタスに臣従してブリャンスク、チェルニゴフ、トゥルベツクを与えられ、モスクワ公国南方に広がるリトアニアの辺境地域の統治を任されていた。
(*7)この時のリトアニア軍にはポーランド軍や少数のドイツ騎士団軍も加わっていた。
(*8)ウグラ川はオカ川の支流で、モスクワの南西200kmあたりを南東に向って流れ、モスクワの西南西約160kmに位置するカルーガでオカ川に合流する。なお、オカ川は南から流れてきてカルーガの西郊外でウグラ川と合流してから向きを東に変え、モスクワの南方100kmあたりを東に流れてコロムナ、リャザニを経て、モスクワ東方280kmあたりを北上してニジニ・ノヴォゴロドでヴォルガ川に合流する。これを見てもわかるように、カルーガを中心として、これより南方はオカ川を、北方はウグラ川を境に、両河川の西側はリトアニアの支配地域であった。
(*9)この協定を「ウグラ川の協定」という。
(*10)1408年、キプチャク汗国のエディグは大軍を率いてニジニ・ノヴゴロドを襲撃して焼き払うと、北西のゴロデツを襲い、さらに東北東に進んでモスクワの北々東約200kmに位置するロストフを焼き払ってモスクワに迫った。モスクワは辛うじて陥落を免れたが、焦土と化して荒廃した。当時、エディグはキプチャク汗国の実権を握る実力者で、汗国の汗は彼の兄弟プラド(在位1407年〜1410年)であった。エディグのこの大規模なモスクワ遠征の原因は、モスクワが長い間キプチャク汗国への貢税納入を止めていたことと、キプチャク汗国の宗主権下にあるはずのヴォルガ・ブルガールをヴァシーリイ1世が支配下に置いたことにあった。実際、この前年(1407年)、エディグは先ずヴォルガ・ブルガールに侵攻している。
(*11)これがロシア史でいう「ウグラ川の対峙」で、1480年5月から始まった大オルダの汗アフマド(在位1465年〜1481年)とモスクワのイヴァン3世(在位1462年〜1505年)の争いの最終段階におけるウグラ川を挟んでの睨み合いであるが、両者とも大軍を動員しながら最後まで本格的な戦闘に至らず、同年11月にアフマドが撤退して終った。このとき、リトアニア大公カジミエラス(在位1440年〜1492年)はポーランド王(在位1447年〜1492年)でもあったが、モスクワの台頭を抑えるために、モスクワの向こう側(東側)に位置するキプチャク汗国崩壊後の後継国家(破片国家)大オルダの汗アフマドと同盟していた。
(2020年4月 記)
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