2020年05月16日

リトアニア史余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治/武田 充司

 1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれると(*1)、ドイツ騎士団はジェマイチヤの主要な河川に沿って点在する城の修理を進めると同時に、要所に新たな城を築いた(*2)。
   1407年にはジェマエチヤ統治の拠点となるドベシンブルクの城が完成し(*3)、各地に役人が配置され、徴税に必要な土地の測量と人口調査が実施された。そして、ドイツ農民の入植と三圃農法の導入による農地の生産性向上が推進された。しかし、これらの政策はジェマイチヤの人々の生活向上のためではなく、彼らから少しでも多く税や農産物を取り立てるためであったから、彼らは農奴となり、酷税に苦しめられた。それに輪をかけるように15世紀初頭にヨーロッパを襲った気候不順(*4)が彼らを飢餓に追いやった。
   しかし、ヴィタウタスは「ラツィオンシュの講和」で約束したことを守り、ドイツ騎士団の築城に作業員や食糧などを供給し、周辺を警護する守備隊までも配備したから、ジェマイチヤの人々は反乱を起すこともできなかった。

   このような統治システムの整備がなされると、ドイツ騎士団に忠誠を誓って従順に行動した人々には然るべき報酬が与えられ優遇されたが、反抗する住民は容赦なく罰せられ、処刑された。そして、何百人というジェマイチヤ人が人質としてプロシャに連れ去られた。しかし、その一方で、ジェマイチヤにおけるキリスト教(カトリック)の布教活動は遅々として進まなかった。これは、頑固なジェマイチヤ人の性格を知っていた騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの老獪で思慮深い統治手法のあらわれであったが、騎士団内部には彼のこうした迂遠なやり方に不満を持つ強硬派もいた(*5)。彼らはドイツ騎士団に協力しているヴィタウタスを信用せず、ジェマイチヤ人に対するヴィタウタスの隠然たる影響力を恐れていた(*6)。

   ところが、1407年3月30日、コンラート・フォン・ユンギンゲンが亡くなり、翌年に漸くコンラートの弟ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがドイツ騎士団総長に選出されたが(*7)、その間に、圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々は西欧キリスト教世界に自分たちの窮状を訴える運動を起していた。これに対して、兄のあとを継いで騎士団総長となったウルリヒは武人肌の人物で、兄のような思慮深い老練な政治家ではなかったから、以前からジェマイチヤ政策に不満をもっていた騎士団内部の強硬派が勢いづいた。

   「ラツィオンシュの講和」による一見平穏な時間の流れの中にこうした緊張感が漂いはじめた1408年の暮れ、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの従兄弟は、密かにナウガルドゥカスに会した(*8)。ポモージェ・グダンスキエとジェマイシヤを支配下に置いたドイツ騎士団に対する彼ら2人の問題意識には共通するものがあった(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*2)たとえば、現在のヨスヴァイニャイ(Josvainai)近くのシュシヴェ川(Šušivė)河畔にケーニヒスブルク(Königsburg)という城が新たに築かれた。シュシヴェ川はヨスヴァイニャイの南方約8km地点でネヴェジス川に合流する支流で、ネヴェジス川はニェムナス川の支流である。また、ヨスヴァイニャイはカウナス(Kaunas)の北々西約40kmにある。また、クリストメメル(Christmemel)にも新しい城が造られたというが、ここにはカール・フォン・トリールがドイツ騎士団総長だった時代の1313年に最初の砦が築かれたが、その正確な位置は不明である。ただ名前からしてニェムナス河畔にあった城で、現在のユルバルカス(Jurbarkas)からヴェリュオナ(Veliuona)の間のどこかにあったようだ。
(*3)ドベシンブルク(Dobesinburg)はドゥビサ川(Dubysa)がニェムナス川に注ぐ河口付近に建設された。以前この辺りには「サリーナス条約」成立後にジェマイチヤ統治の拠点としてフリーデブルク(Friedeburg)の城が築かれていたが、1401年3月のジェマイチヤ人の反乱で焼き払われ、放置されていた(「余談97:ジェマイチヤの反乱」参照)。しかし、この城もこのとき再建されたようだ。
(*4)このとき、ヨーロッパでは「百年戦争」の最中であったが、飢餓や疫病で農村人口は激減し、フランスだけでも3000もの村が廃村となり、広大な農地が耕作されずに放置されたという(ブライアン・フェイガン著、東郷えりか・桃井緑美子 共訳「歴史を変えた気候大変動」p.160〜p.161参照)。
(*5)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの慎重なジェマイチヤ統治については「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(7)参照。しかし、騎士団内部の聖職者は布教を急いでいたはずで、武力による改宗強要が当然と考えられていた時代であったから、一部の騎士たちには総長コンラートの深謀遠慮は理解され難かったようだ。
(*6)「余談98:ラツィオンシュの講和」で述べたように、この講和はドイツ騎士団に有利なものであったから、騎士団側としてはこれを盾に平和を維持することが少なくとも短期的には得策であったが、ヴィタウタスにとっても、この平和維持は東方への支配地域拡大の時間を与えてくれるメリットがあった。実際、当時の彼の行動からもそれがうかがえる。そして、ヴィタウタスの軍事力の源泉は広大な東方の正教徒の地を支配下に置いていることにあった。したがって、ヴィタウタスに時間を与え過ぎるのは危険と考える騎士団内部の勢力がいたことは当然で、総長コンラートもおそらくヴィタウタスを信用せず、彼に対する監視を怠らなかったはずだ。
(*7)ドイツ騎士団は地位の世襲を認めず、所属の騎士は妻帯せず世継ぎを残さないことによって規律を保っていたから、騎士団総長は総会の選挙によって選ばれていた。したがって、総長が亡くなると、総会の招集などで時間がかかり、その間は総長不在になる。なお、総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンの在位期間は1408年から1410年7月15日(没)までである。
(*8)ナウガルドゥカス(Naugardukas)は現在のベラルーシの都市ナヴァフルダクで、ヴィルニュスの南々東約125kmに位置し、当時はリトアニアの重要拠点のひとつであった。この会談は「余談99:ウグラ川の協定」で述べた1408年秋のヴィタウタスとヴァシーリイ1世の最初の対峙の直ぐあとというタイミングである。
(*9)ジェマイチヤを支配したドイツ騎士団はプロシャの本部と北方の支部リヴォニア騎士団との間をバルト海岸沿いの陸路で結ぶことができたから、リトアニアはバルト海への出口を失った。また、ポモージェ・グダンスキエを奪還できなかったポーランドも似たような状況に置かれていた(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)。一方、ドイツ騎士団はこれによって軍事的にも経済的にも強化され、益々、両国は不利な立場に追い込まれていた。
(2020年5月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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