2020年06月16日

リトアニア史余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い/武田 充司

 1409年5月、ドイツ騎士団の圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々がついに蜂起した。彼らは瞬く間にクリストメメル、フリーデブルク、そして、ドベシンブルクの城を襲って焼き払った(*1)。
 リトアニア大公ヴィタウタスが密かに彼らの反乱を支援していたことは確かだったが、表向きは「ラツィオンシュの講和」を遵守しているふりをしていた(*2)。これに対して、ドイツ騎士団は、この反乱にポーランドが関与してリトアニアを支援しないように、先ずポーランド貴族たちに警告を発した(*3)。

 ところが、ポーランド王ヨガイラは、ジェマイチヤの飢饉を救うためと称して、ヴィスワ河畔のトルンから食糧を満載した平底船20艘をバルト海経由でジェマイチヤに向かわせた。しかし、その船団がニェムナス川下流のドイツ騎士団の拠点ラグニット(*4)にさしかかったとき、船団はドイツ騎士団によって拿捕された。そして、ドイツ騎士団は船底から多数の武器が発見されたとしてポーランドを非難した。これに対してヴィタウタスはドイツ騎士団がニェムナス川の航行の自由を脅かしたとして(*5)彼らの略奪行為を非難し、その年の夏、数人の武将をジェマイチヤに送り込んで、公然とジェマイチヤ人の反乱を支援した。これを知ったジェマイチヤにいたドイツ騎士団関係者は一斉にプロシャに引き揚げて行った。そして、直ちに本格的な戦争の準備にとりかかってリトアニアを威嚇した。ところが、ポーランドがリトアニア支持の立場を表明してプロシャに侵攻する姿勢を見せたから、リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の敵対関係は緊張の極に達した。

   1409年8月6日、ドイツ騎士団はルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムント(*6)の了解を取り付けてポーランドに宣戦布告した。そして、8月14日、ドブジン(*7)がドイツ騎士団の手に落ち、ポーランド北西部のノイマルク(*8)でも戦いがはじまった。しかし、ヴィタウタスはポーランド支援には動かず、じっと様子をうかがっていた。その間、ドイツ騎士団は当初想定していたような決定的勝利をおさめることができず、その年の秋、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(*9)の調停によって休戦し、一旦矛を納めた(*10)。

 10月8日、翌年の洗礼者聖ヨハネの祝日(1410年6月24日)までと期限をつけた休戦協定が成立すると、ポーランドとリトアニアの人々は早晩ドイツ騎士団との本格的な衝突は避けられないと考え、大規模な戦争準備にとりかかった。そして、その年の12月、ブレスト・リトフスクにおいてヴィタウタスとヨガイラは密かに会談し、対ドイツ騎士団大連合の構築へ秘策を練った(*11)。その席にはキプチャク汗国の汗も招かれていたという。

〔蛇足〕
(*1)ジェマイチヤの人々の窮状と、彼らが焼き払ったこれらの城については「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」参照。
(*2)前年の暮れにナウガルドゥカスで会談したヴィタウタスとヨガイラは、ドイツ騎士団を扇動して彼らの方から開戦するように仕向け、「ラツィオンシュの講和」による平和を破ったのは自分たちではないという大義名分を得ようとしたらしい。「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」および「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*3)ジェマイチヤ紛争にポーランドが介入しないことは「ラツィオンシュの講和」で決められていたが、ドイツ騎士団はポーランド王が貴族たちの圧力に弱いというそれまでの経験から、念を押すように彼らに警告してヨガイラの動きを封じ、リトアニアを孤立させて戦う戦略であったようだ。
(*4)ラグニット(Ragnit)はニェムナス川下流の南岸(左岸)に位置する現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれていて、ドイツ騎士団がリトアニアに進出した初期からの重要拠点であった。
(*5)当時も、ドイツ騎士団との間で、ヴッスワ川やニェムナス川などの重要河川での航行の自由を保障する取り決めがあったから、ヴィタウタスはそれを意識して抗議している。
(*6)ジギスムント(Sigismund)はルクセンブルク公(在位1378年〜1388年)であったが、ハンガリー王としてはジグモンド(Zsigmond:在位1387年〜1437年)と呼ばれ、晩年にはボヘミア王ジクムント(Zikmund:在位1419年〜1437年)としてハンガリーとボヘミア両国に君臨した。さらに、1410年にはローマ王に選出され、1433年に皇帝として戴冠しているが、実質的に1410年から1437年まで神聖ローマ皇帝であった。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)については「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*8)ノイマルク(Neumark)はオーデル川に東から注ぐヴァルタ川の下流地域からその北側に広がるオーデル川以東の平原地帯で、以前はブランデンブルク辺境伯領の一部であったが、1402年以来ドイツ騎士団が支配していた。なお、現在はポーランド領となっている。
(*9)ヴァーツラフ4世(Václav W:在位1378年〜1419年)は、ハンガリー王ジギスムントの異母兄で、1400年まで神聖ローマ皇帝であったルクセンブルク家のヴェンツェル(Wenzel:皇帝在位1378年〜1400年)その人である。
(*10)ドイツ騎士団は、それまでの経験から、ポーランド王ヨガイラは貴族たちの意向を無視できない弱い国王であり、また、従兄弟のヴィタウタスとは不仲で協力して行動することはない、と想定していたようだ。しかし、一見与し易い印象のヨガイラは、見かけと違って忍耐強い深謀遠慮の人であった。しかも、前年の暮れのナウガルドゥカスの秘密会談で、ヴィタウタスとヨガイラはドイツ騎士団に対する厳しい見方を共有していたらしいから、ドイツ騎士団はポーランドとの戦いで誤算に気づいたのかも知れない。
(*11)これは前年(1408年)12月のナウガルドゥカスでの秘密会談に続く2度目の会談である。ブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)は現在のベラルーシ南西部のポーランドとの国境に位置する都市ブレスト(Brest)だが、14世紀の20年代からリトアニアの支配する都市であった。なお、ブレスト・リトフスクとは「リトアニアのブレスト」という意味である。
(番外)「余談97:ジェマイチヤの反乱」で述べた問題児のシュヴィトリガイラ(Švitrigaila)は、このときのジェマイチヤ人の蜂起でもドイツ騎士団に通じて再び謀反を企てたが、彼がドイツ騎士団に送った密書が奪われて陰謀が発覚し、捕えられてヴォリニアのクレメネツ(Kremenets)の城に監禁された。彼はそこで9年間の幽閉生活を送ったのち、脱出している。クレメネツ(Kremenets)は現在のウクライナ西部の小都市で、リヴォフの東北東約130kmに位置し、13世紀のモンゴルの襲来でも落城せず耐え抜いたことで知られている。
(2020年6月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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