2020年12月16日

リトアニア史余談107:ジャルギリスの戦い/武田 充司

 戦いはドイツ騎士団の陣営が放った2発の斉射によって始まった。1410年7月15日の午前9時頃であった。北緯54度に近い北国の夏の夜明けは早く、午前9時といえばもう真つ昼間で、早朝の不安定な天候もおさまり、強い夏の日差しが照りつけていた(*1)。
 戦闘開始後まもなく、意外にもドイツ騎士団軍は隊形を崩して前線から後退しはじめた(*2)。そのとき、ヴィタウタス率いるリトアニア軍は彼らの左翼に砲撃を浴びせて攻撃を仕掛けた。これに応えて騎士団軍左翼の精鋭部隊が応戦して戦闘は本格化したが、リトアニア軍は右に迂回しながら敵の左側面に激しい攻撃を加えた(*3)。
   両軍互角の戦いが1時間ほど続いたが、次第にリトアニア軍は劣勢となり、やがて総崩れとなって敗走した。算を乱して逃げる敵を追撃する騎士団軍の陣営からは、早くも勝利の歌「キリストは復活せり」の歌声が響いた。しかし、右翼のリトアニア軍と左翼のポーランド軍の間に陣取っていた中央のレングヴェニスの軍団は一歩も引かず奮戦していた。

 このとき左翼を固めていたポーランド軍の一隊が敵軍の中央部めがけて突撃した(*4)。激突した両軍の激しい戦いの最中に、突然、ドイツ騎士団軍の中からひとりの勇猛な騎士が現れ、ポーランド軍陣営に突入して軍旗を倒した。それは一瞬の出来事だった。しかし、これを見たポーランド兵が軍旗を奪い返して再び高く掲げると、これに鼓舞されたポーランド軍は襲いかかる敵軍を圧倒しはじめた。
 そのとき、騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、今こそ勝敗を決すべき時とばかりに、自ら控えの精鋭部隊を率いてポーランド軍主力の右側面を急襲した(*5)。敵味方入り乱れての激しい戦いになったそのとき、少し離れた所から戦況をじっと見ていた総大将ヨガイラに、突然、ひとりの敵軍の騎士が突進してきた。傍らにいた秘書官ズビグニエフ・オレシニツキは、咄嗟に、戦闘で折れた槍を突き出して一撃した。それで全ては終ったが、この突然の出来事に両軍しばし息をのんで立ち尽くしたという(*6)。

 そうこうしているうちに、戦場を駆け巡って叱咤激励するヴィタウタスの怒号が聞こえたのか、初戦に敗れて散り散りになって逃げたリトアニア軍の騎馬兵や歩兵の群れがどこからともなく現れて戦闘に加わってきた(*7)。ヴィタウタスは素早く彼らを集めて組織を建て直すと、敵の背後に回り込んで攻撃した(*8)。これに応えて、ポーランド軍も後方に控えていた精鋭部隊を総動員して敵軍主力の正面を激しく攻め立てた。突然の挟撃に狼狽した騎士団軍は混乱し、戦況は一変した。

 やがて包囲網が狭められ、騎士団軍は壊滅した(*9)。夥しい犠牲者とともに、混乱した戦闘の中で騎士団総長をはじめとする騎士団幹部の殆どは壮烈な最期を遂げ、戦いは終った。

〔蛇足〕
(*1)このときの両軍の位置関係は、北東から南西に引かれた1本の架空の直線を挟んで対峙したと考えれば分り易い。この線の北西側にドイツ騎士団が、南東側にポーランド・リトアニア連合軍が布陣した。当時、この辺りは小川が流れている湿潤な低地であった。しかも、緩やかな高低差のある地形であったから、高いところからでないと戦場全体を見渡すことができなかったが、ドイツ騎士団は北西側の奥の小高い丘の上に本陣を置き、騎士団旗を奉ずる親衛隊が騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンを守っていた。現在、この場所には、この戦いを記念する碑が立っている。本陣の前面と南西側には予備の騎馬隊と歩兵隊が分散配置されていた。そして敵に対峙する最前列に騎馬隊が並び、その背後に歩兵が並んでいたが、その間に挟まれるように火砲の部隊が配置されていたので、前方の敵には火砲部隊が見えないようになっていた。これに対して、ポーランド・リトアニア連合軍は、最前列、中段、最後列の3段構えで、右翼(北東側)はリトアニア軍で固めたが、その前面にはドイツ騎士団の左翼を構成する騎士団軍の精鋭部隊とヨーロッパ各地から馳せ参じた気鋭の騎士軍団が対峙していた。ポーランド軍は南西側(左翼)に展開し、その背後の少し離れた丘の上に予備軍に守られた総大将ヨガイラが本陣を構えた。左右両翼の切れ目を埋めるように、中央の左端にボヘミアの傭兵部隊が、中央にはヨガイラの弟で戦上手のレングヴェニス率いるスモレンスク軍が、中央の右端にはレングヴェニスの兄カリブタアス率いるルテニア軍が陣取っていた。
(*2)この撤退は敵を前進させて前線に掘った隠し濠にはめて混乱させようとする既定の作戦であった。
(*3)ヴィタウタスは敵の意図を読み、隠し濠を迂回して攻撃した。
(*4)このとき、右翼のリトアニア軍の敗退で中央の軍団も動揺し、ボヘミアの傭兵部隊が真っ先に撤退し始めていた。これを見たヨガイラの側近ミコワイ・トロンバ(Mikołaj Trąba)が駆けつけて彼らを押しとどめ、中央部に近いポーランド軍右翼を突撃させて士気を鼓舞した。これに助けられて、奮戦するレングヴェニスは、麾下の1旗団を失ったが、残る2旗団で敵の包囲を突破して左翼のポーランド軍に合流した。
(*5)彼は精鋭の16旗団を率いて、自分たちが掘った隠し濠を避けるようにして、崩壊したリトアニア軍の右端(北端)をまわって南下し、ポーランド軍本陣の右側(北側)に現れた。この16旗団のうち15旗団が未だ戦闘に参加していなかった精鋭部隊で、その総戦力はドイツ騎士団が通常保持している戦力の3分の1近くに相当するものだった。これほどの新戦力が防御の手薄なポーランド軍本陣の右手に現れたのだから、ポーランド軍は危機的状況に陥った。しかし、当初、彼らは、これを敵軍とは思わず、撤退したリトアニア軍が合流するために近づいて来たものと思っていたという。
(*6)このとき20歳の若者であったズビグニエフ・オレシニツキは、ヨガイラの命を救った功績が認められ、のちに枢機卿にまで出世した。
(*7)このことから、緒戦でのリトアニア軍の敗走は意図的なもので、これはヴィタウタスが1399年の「ヴォルスクラ川の戦い」の敗北から学んだものだという説もあるが(「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照)、それにしては兵士の戻りがばらばらで遅いので、これはヴィタウタス贔屓の思い過ごしだろう。
(*8)リトアニア軍が敗れ、味方の右翼が崩壊したあと、ヴィタウタスが恐れていたのは、ヨガイラが戦況不利とみて早々にポーランド軍を率いて撤退してしまうのではないかということだった。しかし、ヴィタウタスは前線を左右に走りまわって各部署の兵士を鼓舞し、常に戦況の全体像と個別の戦闘の状況を把握していた。その結果、ヴィタウタスは、戦線に戻ってきた兵士を迅速に再編成し、最善の戦闘行動をとることができたのだった。
(*9)このときの戦いを象徴的に活写したのが19世紀ポーランドの画家ヤン・マテイコ(Jan Matejko)の大作「タンネンベルクの戦い」であると言われている。
(2020年12月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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