2021年03月16日

大震災から10年/小林 凱

  今年も3月、東日本大震災が発生してはや10年の歳月が過ぎました。その節目に新聞やテレビなどあの大災害が私達の暮らしに遺した深い爪痕を振り返って居ます。その中で私もあそこ迄致命的では無いにしても、直接この災害を体験する機会がありました。
  2011年3月11日金曜日の午後、私は東京でこの地震に遭遇しました。
  当時私はイタリア語の学習に東京九段のイタリア文化会館に出掛けて居ました。金曜日の午後のコースが始まって、一時間ほど進んだ処で強烈な揺れが来ました。始めは皆何事か良く判らなかったが授業は中止して警戒した処へ第二波の強い揺れが来て、この時は皆テーブルの下に入って落下物を避けました。私は建物の倒壊は余り心配しませんでした。それはこのビルは数年前に建てなおしたばかりで、その際に最新の建築法規に準拠して居ると思ったからです。

  この揺れの後私達は階段で外に出て辺りを見廻しました。この後大きな揺れは無くて隣接ビルも正常の様子でしたが、通行人から近くの九段会館では会合に多数の人が集まった上に天井が崩れ落ちて多数のけが人が出た事を知りました。救急車のサイレン以外は皆停止してしまった様にしんとして状況は不明、私達はその後はそれぞれの立場で状況判断して行動する事になりました。
  暫く文化会館ビルの前に立って居たが、自然な策として東京駅に向かう人の流れに入って歩き始めました。幸い3月の穏やかな午後の日で助かりました。九段から皇居のお堀を周って東京駅に向かう人の流れが幾つもありました。道路には交通は一切無く、静まり返った東京の街はSF小説の近未来の世界に投げ込まれた様でした。
  そこを多数の人が歩いて居て職場ごとのグループと思いますが、皆整然とした行動で自分たちだけ早くといった者は居なく落ち着いた雰囲気が支配して居ました。
  この人々の行動は職場での防災訓練の結果だけで無く、自然に発生した様子も有る様に見えて、ニュースなどで見る外国での災害の様子と大きな違いを感じました。

  東京駅に着くと随分沢山の人が居たが、皆驚く程おとなしいマナーでした。改札を入って中へ進むと階段の様に見える広場があってそこには沢山の人が集まって居たが、低い声での会話が主で怒鳴る声は無かった。数台の公衆電話では皆が家に連絡しようと長い列を作って居たが、中々繋がらない様子が見て取れました。また携帯には既に交信制限がかかっている様に見えました。

  私はどうしたものかと思案して、このホールは避けて上の電車のホームへ登ってみました。売店の近くに公衆電話が在ってそこは穴場で数人しかいません。すぐに順番が廻って家に電話が繋がりました。家人には兎も角生きているから心配するな、この後電話が出来なくても安心している様に申して次の人に渡しました。

  この後駅の中に入って先ほどのホールに行きました。此処は頻繫にアナウンスが為されて、情報を得るには好適と思ったからです。人も増えて来たがその中で少し密度のまばらな処で先客に聞いたらどうぞとの事で有難く階段に座らせて貰いました。後で聞いた話ですが、この人混みの中でも人が通れるような通路が自然に形成され、それを外国紙の特派員の方が見て感銘して写真が掲載された様です。

  こうしているうちに時間は19時を廻ったと思います。新幹線のこだまが先ず動くとアナウンスされ、特急券は無くても其の儘入れて呉れました。私もホームに行くと既に満員だが何とか乗れました。随分待った後、何回も停止と徐行を重ねて先ずは新横浜まで行って私はそこで下車。行き先未定の人は横浜アリーナで休めるとのアナウンスに先ずは其処へ歩きました。此処には自販機が動いて居て、午後から始めて暖かい飲み物が入りました。観覧席の裏側の空間に避難者用のスペースがあり其処に座りました。間もなくOLらしい若い娘さんが来て隣に腰を下ろし、私の様な高齢者を不審に思ったのか、「大変でしたねお仕事ですか?」と訊いて来ました。私は仕事ならぬ70の手習いで東京に出て来てこの様な災難に出会ったと答え、ここから地下鉄が動いたら京浜急行の上大岡方面に行ける所迄行きたいと申しました。彼女はまた違う方向の交通再開を待って居ました。アリーナの中は暖房が効いていて、下はソフトなフローリングで先ずは助かりました。

  可成り夜も時間が過ぎたところで地下鉄が途中まで動き出し、私はこれに乗ろうと娘さんにお先にと別れを告げました。地下鉄は京浜急行の上大岡まで行くので、これは行ける所まで行こうとしていた私には幸でした。地下鉄の乗り場に行くと最初に入った電車には8割くらいの乗車で改札を閉め、後は途中の駅の乗客に遺して置くと説明されました。それでも私は2番目の電車に乗る事が出来ました。

  もう夜半過ぎの時間ですが上大岡の駅では人が溢れていました。私はタクシーの列についたが殆ど動かない中で区役所の方が来て、約1Km余り先の港南区民センターで帰れない人を受け入れて居るとの話が有り、私も場所を知っているので其処へ向う事にしました。同時に途中の食堂2軒に頼んで開いて貰ったのでまだの人はそこを試すと良いと教えて呉れました。

  センターへの道沿いに牛丼屋さんがあり混んでいたがすぐ入れた。メニューは牛丼1本だが昼から何も食べていない私には何でも感謝で、熱いご飯はどんどん調理している証拠と有難く頂きました。

  出ると少し先に港南区のスポーツセンターがあり、係の方が待って居られてすぐチェックインして毛布が貸与され、体育館での寝場所を紹介されました。カバンを枕に横になり高い天井を眺めると、今日(正確には昨日)の午後の地震発生から12時間、良く怪我も無しに此処まで来れた、途中の皆さんも優しかったし日本は素晴らしい国だとの実感が溢れました。しかし自分の齢(当時78)も考えてみると、いつ迄も災害時にうまく行くとは限らない、語学の勉強も考え直さないと何処かで痛い目に遭うだろうと思いました。

  この後少しうとうとする内に夜が明けて昨日同様明るい陽光が入ってきました。間もなく区役所の方が来て、京浜急行は朝から暫定ダイヤで運転開始すると知らせて下さり、私達は係の方にお礼申して駅に歩きました。私の家のある金沢文庫駅では土曜日の休日ダイヤだがバスは動いており支障無く帰宅出来ました。

  当時私は住んで居るマンション(約百戸余)の管理組合の役員が当たって居り、その午前中に理事会が予定されて居ました。顔を出すと無事でよかったと皆さん喜んで下され、流石に眠かったが皆さんに助けて頂き何とかお役目を果たせました。

  こうして震災後の初日は過ぎて行きましたが、この時点で東北での津波の凄さ、それから福島ではその後の日本を苦しめる事態が進行している状況は良く知りませんでした。何事も後になると色んな事が判って仮定も含めての批判も出ますが、このレポートでは出来るだけ当時の状態に立っての記憶を辿りました。

  余談ながらイタリア語の勉強ですが、この経験から次(4月)からのコースは好き嫌いは二の次として、早い時間のコースに変えました。更にその数年後になると聴覚の低下が始まり、先生の発音を聞き誤る様になりました。これは周波数の高い(約3Khz以上)帯域での感度低下から子音の理解が難しくなった様で、残念ですがコースへの参加を終わりました。しかし今でもCorriere della Seraとか、La Repubbulicaといった大手紙はネットでも見れるので、YouTubeなどで探して楽しんでいます。

posted by でんきけい at 00:00| Comment(5) | 小林レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これはすばらしい記録文書ですね。当時の有様がリアルに迫ってきて、感動しました。こういう記録は大切にしたいですね。
Posted by 武田充司 at 2021年03月16日 11:20
ナマナマしいお話しで当時を思い出します。私はその時恵比寿に居て、変圧器を抱いた電信柱が大きく揺れるのを見ていました。渋谷駅周辺の雑踏をみながら家まで歩いて帰りました。
Posted by サイトウ at 2021年03月16日 16:18
 東京も3月11日は大変だったのだということを、この記事と今年の3月11日のテレビ局の追悼番組で初めて知りました。
 僕は当日、南熱海マンションにいて、理事会の準備の打ち合わせをしていました。2時46分事務室にいるときに地震発生、受水槽の警報が鳴ったと日記に書いてあります。川崎へは翌日帰りましたが、海岸通りは走れず、尾根経由で帰ったと記憶しています。
Posted by 高橋郁雄 at 2021年03月16日 17:20
コメントありがとうございます。私自身にも保存する記録が無かったので、今度それが出来てほっとしたところです。
Posted by 小林凱 at 2021年03月17日 14:25
 大先輩の貴重なお話に割り込むのも大変恐縮ですが、東日本大震災が惹起した時、私共(65年卒・不惑会 有志)は、スイスのツエルマットでスキーを楽しんで居りました。丁度 昼食時で、隣のテ—ブルの方が「日本で大変なことが起こっているよ」とお知らせ下さり、ホテルに戻ると津波に拠る災害の有様が目を奪いました。
 翌日 帰国の途に就きましたが、空港で登場した便の機長が、「機材搬入の為、一時間ほどお待ち下さい。」とアナウンス。成田に着くと、なんとそれは、スイスとドイツの災害救助隊が、捜索犬と共に搭乗して居たのです。彼らの機敏な対応にまず驚き、そして、感謝致しました。その後、両国の対応ぶりが また 対照的でした。ドイツは隊員の被曝を回避するため早急な帰国命令を出しましたが、スイスは一人でも多くの命を救おうと日本滞在を延期しました。日本では自衛隊の活動が顕著なものでしたが、原子力発電所の情況については、十分な根拠が示されないまま「安心」だけが喧伝され…という状況でした。
 原子力学会とは、「一線を隔する」対応をした電気学会に対し、不肖 小生は 原子力発電の分野で仕事をした経験からも「何らかの責任」を負うべきと愚考し、学会の「倫理綱領」に基づき、ある申し出を致しましたが、倫理委員会は慎重なご検討の結果「倫理規定に罰則がない」との理由で、申し出を却下されました。この経緯に関心を示された朝日新聞の科学ジャーナリスト(柴田鐵治氏)は、2011年8月10日の電気新聞「時評」欄に「電気学会のドン・キホーテ」という投稿をされ、その後電気学会がこの課題にどの様に対応するかを注目されました。それ以来、この課題が小生の肩に「十字架」の如き重しとなり、その対応策を探る調査専門委員会を立ち上げました。その結果は、技術報告第1356号(2016年5月)『日本における原子力発電の歴史』、技術報告第1498号(2021年1月)『歴史に学ぶ21世紀に於ける電力系統技術』として公刊されております。しかし、この背景には20世紀までに構築された様々なシステムが国際的にも「制度疲労」を起こしているという現実があり、福島の復興を始めそれはの対応は遅々として進んでおりません。そのうえCOVD-19を巡る混乱がマスメディアの喧伝などと相俟って、地球全体を混迷と退廃に巻き込んで居ります。この中で自らとその周囲の安全と安心とを守るためには、軽挙妄動せず歴史に学ぶ俯瞰的視野に立った対応が求められますが、それは「言うは易く、行うは難い」ものです。これに対し、技術報告第1498号では、まとめに当たる第5章第2節「みんなで造ろうロードマップ」で、細やかでも堅実な「明日への第一歩」を踏み出そうと呼びかけて居ります。各位のご所見とご批判とをお寄せ頂ければ、望外の幸甚に存じます。
 長い駄文にお付き合い戴き、感謝です。
Posted by 荒川文生(1965卒) at 2021年05月01日 05:41
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