2021年04月16日

リトアニア史余談111:トルンの講和/武田 充司

 1410年9月、マリエンブルク城の攻略(*1)をあきらめたポーランド・リトアニア連合軍が、占領した要所の城に守備隊を残して順次引き揚げて行くと、失地回復を目指すドイツ騎士団は撤退して行く敵を追って出撃した。
  その結果、ポーランド軍が占領していたプロシャ領内の城のほとんどは、数週間のうちにドイツ騎士団に奪還されてしまった(*2)。これに驚いたポーランド王ヨガイラは新たに軍を編成して反撃に出た。そして、10月10日、コロノヴォ(*3)で敵軍を撃破すると、勢いづいたポーランド軍はドイツ騎士団領内のあちこちで攻勢に転じ、敵を圧倒した(*4)。

 11月9日、正式にドイツ騎士団総長に選出されたハインリヒ・フォン・プラウエン(*5)は、西欧キリスト教世界に支援を要請して断固戦う決意を示したが、ドイツ騎士団評議会は総長の考えをうけいれず、むしろ交渉によって事態を収束すべきだとの結論に達した。そして、その年の12月10日から翌年の1月11日までの休戦協定に合意した。
 ハインリヒ・フォン・プラウエンはこの休戦協定にしたがってポーランド王ヨガイラとマゾフシェのラツィオンシュで会談したが、3日間に及ぶ交渉はなんの成果も得られず決裂した(*6)。そうすると、ハインリヒ・フォン・プラウエンは再び主戦論をふりかざし、休戦協定が切れるとドルヴェンツァ川を渡ってドブジン(*7)を占領した。しかし、疲弊しているドイツ騎士団にとって戦いを続けることができず、再び休戦交渉に臨んだ。交渉はトルン近郊のヴィスワ川の川中島で行われた。

 1411年2月1日、ドイツ騎士団との間で講和条約が締結された。この条約によって、ドイツ騎士団とポーランドおよびリトアニアとの国境線は「ジャルギリスの戦い」以前の状態に戻すことになったが、ジェマイチヤはポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスの生存期間中に限ってリトアニアに返還されることが決められた(*8)。その結果、この交渉に入る直前にドイツ騎士団が占領したドブジンはポーランドに返還されたが、ポーランドが奪還を目指していた東ポモージェは依然としてドイツ騎士団の手に残った(*9)。しかし、ドイツ騎士団はこの条約によって莫大な賠償金を支払うことになった。この賠償金にはポーランドに捕らえられているドイツ騎士団の身分の高い騎士や貴族たちを取り戻すための高額の身代金も含まれていた(*10)。

 この条約によって敗者であるドイツ騎士団は殆ど領土を失うことなく、すべてを賠償金の支払いによって解決した。これはドイツ騎士団の外交的勝利であった。失われた領土の回復には新たな戦争が、有能な人材の育成には時間が必要だが、金銭は西欧からの借金によって賄える。こうしてドイツ騎士団はその存立の基盤を守り、捲土重来を期したのだ。

〔蛇足〕
(*1)「余談109:マリエンブルクの攻防」参照。
(*2)マリエンブルクの南方約13kmに位置するシュトゥム(Sztum)には以前からドイツ騎士団の城があったが、撤退するポーランド軍はそれを利用して強固な要塞を築き、強力な守備隊を残してマリエンブルクの監視をしていたが、ここも3週間の包囲に屈してドイツ騎士団に奪還されてしまった。そのほか、エルブロンク(Elbląg)やオストルダ(Ostróda)などもドイツ騎士団に奪還された。このとき、リヴォニア騎士団も奪還作戦に協力している。結局、ポーランド軍が占領していた城のなかで奪還されなかったのは、トルン(Toruń)とその対岸のネッサウ(Nessau:現在のヴィェルカ・ニェシャヴァ〔Wielka Nieszawa〕)、そして、レーデン(Rehden:現在のラジン・ヘウミンスキ〔Radzyń Chełmiński〕)とシュトラスブルク(Strassburg:現在のブロドニツァ〔Brodnica〕)の僅か4つだけであったという。
(*3)コロノヴォ(Koronowo)はビドゴシュチの北方約18kmに位置するブルダ河畔の都市で、このとき、ポーランド軍はノイマルクから侵攻してきたドイツ騎士団の援軍を撃破した。
(*4)このとき、ドイツ騎士団はドイツの諸侯たちに支援を要請していたが、諸侯の反応は鈍く、おまけに、この年の5月に神聖ローマ皇帝ループレヒトが亡くなって、9月10日にハンガリー王ジギオスムントが次期皇帝に選出されたが、4人の選帝侯がこれに反対して紛糾していたため、ジギスムントはドイツ騎士団支援のことより自分のことに気を取られていた。こうしたことがポーランドに幸いし、反撃の体勢を整える時間的余裕を得たのだった。
(*5)ハインリヒ・フォン・プラウエンは「ジャルギリスの戦い」に参加せず、騎士団総長の命令でマリエンブルクの守備にまわり、マリエンブルクを救った功労者であったから、「ジャルギリスの戦い」で騎士団総長が戦死して以後は、実質的に騎士団のトップであったが、1410年11月の総会で正式に総長に選出された。
(*6)ラツィオンシュは1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれた場所で、そのときはドイツ騎士団が有利な立場で交渉を妥結させたが(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)、今回は弱い立場のドイツ騎士団が不利で、彼らの主張は拒否され、交渉は決裂した。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)については「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*8)このときもジェマイチヤ確保に固執するドイツ騎士団の策が半ば功を奏したが、この後で、ジェマイチヤ問題は再び紛争のもとになる。
(*9)東ポモージェ(ポモージェ・グダンスキエ)については「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*10)賠償金の総額は当時のイングランド王の平均的年収のほぼ10倍に相当する額であったというが、支払いは4年分割払いであった。そして、最初の2回は約束通りに支払われたが、財政破綻していたドイツ騎士団はここで万策尽きたかに見えた。ところが、驚いたことに、1413年1月、ドイツ騎士団は未払い分の全額を支払い、約束を守った。その裏には神聖ローマ皇帝となったハンガリー王ジギスムントの支援があった。ジギスムントは1412年3月にポーランド王ヨガイラと「ルボヴラ条約」を結んで、「トルンの講和」を認めると同時に、東ポモージェに対するポーランドの主権を秘密裏に支持するという甘い言葉でヨガイラを宥め、ハンガリーのスピシュ地方の16の岩塩鉱山をポーランドに抵当として差し出し、ヨガイラから222万プラハ・グロッシェン(ほぼ純銀7トン相当)を借りることにした。この資金がジギスムントからドイツ騎士団に融通されたのだった。結局、ポーランドは自分の懐にあった資金がぐるりと回って戻ってきただけなのだ。これはジギスムントの側近シチボル・ゼ・シチボジツが仕組んだトリックであったが、岩塩鉱山のあるスピシュ地方はその後ずっとポーランド領になった。
(2021年4月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(2) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
武田先輩の視野の広さに 改めて 感服申し上げます。

1)何故に ドイツ騎士団に ご関心をお持ちになりましたか?
2)この歴史から学ばれたことは何でしょうか?

お暇な折にでもメールを頂戴できれば幸甚に存じます。
Posted by 荒川文生 at 2021年05月01日 04:21
荒川さん、コメント有難うございます。
1)僕の関心はリトアニア史なのですが、中世のリトアニアは、主としてポーランド王国、モスクワ公国、ドイツ騎士団など、隣接する国(地域、人々)との密接な接触と相互作用の中で展開されているので、自然とドイツ騎士団のことを書く機会も多くなっています。
2)歴史は現代を理解する鍵のようなものだと思っています。僕は、いつでも、この余談を書きながら、その中に、今の世界で起こっていることをどう理解し、どう対処すべきなのか、ということを考えるヒントが隠されている、と感じています。それが歴史理解の魅力であり、本質だとも思ってます。
 この余談シリーズでも、これを読んで下さった方が、それぞれの理解の仕方で触発され、いまの世界の問題を考えるヒントを得てもらえれば幸い、と思っています。

Posted by 武田充司 at 2021年05月03日 12:18
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