2021年07月16日

リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
 ドイツとスイスが接する国境の湖、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、1414年11月15日から開かれていた公会議に、ドイツ騎士団の代表団が11輌の4輪荷馬車を連ねて乗り込んできたのは、その年も押し迫った12月のことであった。そして、年が明けた1415年1月には、ミコワイ・トロンバ(*3)に率いられたリトアニアとポーランドの合同代表団もコンスタンツに到着した。

 この公会議で彼らの議題が初めて取り上げられたのは1415年5月11日であった。ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の双方が文書を提出し、それぞれの主張の正当性を開陳し、相手の非を激しく糾弾した。
 ドイツ騎士団の代表は、彼らが招かれてポーランド北部に入植した当時からの歴史を説き起こし(*4)、ポーランドの平和と繁栄に如何に貢献したかを語ったあと、それにもかかわらず、ポーランドの人々は悪魔の異教徒リトアニア人と結託してドイツ騎士団に歯向かい、約束を守らず、殺人、放火、略奪などをくり返したと激しく非難した(*5)。
 これに対して、ポーランドの代表は、非人道的なドイツ騎士団の行為と武力による不法な抑圧の数々を、実例をあげて非難し、キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは教皇の権限を超えていて自然法に反すると断じた。また、武力に訴えて異教徒を改宗させることは、「真の改宗は“自由な選択”と不可分である」とする聖書と教会法に反する行為で、決して正当化できないと論じた(*6)。

   このような激しい論争があったあとのこの年の11月28日、最近キリスト教徒に改宗したという60人ほどのジェマイチヤ人の一団がコンスタンツにやって来た。そして、翌年(1416年)の2月、公会議で陳述する機会を与えられた彼らは、「長い間ドイツ騎士団の残虐行為に苦しめられたが、我々はローマ教会の信仰に帰依することを望んでいる。しかし、ドイツ騎士団の攻撃と侵略が続いているので、多くの者が改宗することをためらっている。」と述べたあと、「我々はリトアニア大公国の一員であり、ヴィタウタス大公に我々をキリスト教徒として受洗させる権限を与えて欲しい。」と請願した。

   こうしたジェマイチヤ人の訴えは公会議に集まった聖職者たちに大きな衝撃を与えたが、これをどう処理するかは難しい問題だった(*7)。新教皇マルティヌス5世は明白な結論を出すことなく公会議の閉会を宣言したが、そこには強かな政治的配慮も示されていた。

〔蛇足〕
(*1)ローマ教会の大分裂は、アヴィニョン教皇時代を終らせたグレゴリウス11世が亡くなった翌年(1378年)に始まった。このとき、後継教皇としてウルバヌス6世が選ばれたが、この人が粗野で尊大な独裁者あったため、枢機卿たちが彼を廃位してクレメンス7世を新たに選出したことから、ローマのウルバヌス6世とアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世が並立する時代になったが、フランス王シャルル5世がクレメンス7世を支持したのに対して、神聖ローマ皇帝カール4世と帝国諸侯がウルバヌス6世を支持したため、当時のヨーロッパを分断する政治的対立に発展した。そして、この公会議が開かれた当時は3人の教皇が鼎立するという最悪の状況であった(「余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争」の蛇足(8)参照)。一方、ボヘミアのプラハ大学教授で同大学の総長も務めたヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフ(1384年没)の思想に強く影響された先駆的宗教改革の主導者だったが、この公会議で異端尋問をうけたあと、1415年7月6日に有罪宣告をうけ、直ちに焚刑に処せられた。これは1517年に始まったとされるマルティン・ルターの宗教改革より百年以上も前の出来事である。そして、これがもとで、ボヘミアではフス派による反乱が起り、いわゆる「フス戦争」(1419年〜1436年)が始まった。
(*2)この公会議において、ドイツ騎士団もポーランド・リトアニア連合も、どちらも、長年争ってきた問題について、ヨーロッパの良識に訴えて自分たちの主張の正当性を立証しようとした。
(*3)ミコワイ・トロンバについては「余談107:ジャルギリスの戦い」の蛇足(4)参照。
(*4)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*5)この論陣を張ったのはドイツ騎士団総長の代理人ペーター・フォン・ヴォルムディトで、彼は「トルンの平和条約」の条項も説明し、ポーランド王がこれらの条項を無視しているとも主張した。
(*6)この論陣を張ったのはクラクフ大学の総長パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)で、この人は、「ジャルギリスの戦い」直前の言論戦で当時のクラクフ大学総長スタニスワフとともに、国家間の平和共存を説いて活躍した若き論客であった(「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(9)参照)。彼の論点の中心は:教皇の命令があればキリスト教徒が合法的に異教徒の主権国家を攻撃できるのか。そして、たとえ教皇がすべての人間に対する裁判権を持っていたとしても、彼ら異教徒が知らない法律に違反した廉で彼らを罰することができるのか、などであった。彼の演説は体系的で論理的なもので、のちに論文として出版された。このあと、ドイツ騎士団は13世紀の教会法学者ホスティエンシス(セグシオのヘンリー)の思想に依拠して反論したが、パヴェウ・ヴウォドコヴィツは屈せず、ホスティエンシスの主張が間違っていることを52の論点にまとめて反論した。これものちに小冊子として刊行された。
(*7)当時はまだパヴェウ・ヴウォドコヴィツの主張に反感をもつ人たちが多かった。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨハネス・ファルケンベルクはパヴェウ・ヴウォドコヴィツを異端と断じ、異教徒を殺害して彼らの土地を取り上げ、キリスト教徒のものにするのは合法的であると主張して、ドイツ騎士団の行為を擁護した。しかし、さすがに、こうした極論は当時も批判されたが、それでも、先に述べたホスティエンシスの思想(たとえば、教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及び、彼らが教会の統治権を認めないならば、彼らの主権と土地を奪うことは正当な行為として許される等)は17世紀頃までカトリック世界に大きな影響力を保っていて、スペインの残忍なアメリカ新大陸征服を正当化する論理として使われていたという。我が国の戦国時代にやって来たポルトガルやスペインの宣教師たちの論理も同様で、彼らは「トロイの木馬」であったと言えよう。
(2021年7月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。