2021年08月16日

リトアニア史余談115:フス戦争とヴィタウタス大公/武田 充司

 1419年7月30日、プラハの市庁舎前をフス派(*1)の一団がデモ行進していた。そのとき、市庁舎の窓から突然デモ隊めがけて石が投げ込まれた。これに激高したフス派の人々が市庁舎に乱入し、市長と数人の役人を捕えて市庁舎の窓から路上に投げ落とした。
 これがきっかけとなって、いわゆる「ボヘミアのフス戦争」が始まったが、その翌月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が急死した(*2)。ヴァーツラフ4世は継嗣に恵まれなかったから、彼の弟で今や神聖ローマ皇帝となっていたハンガリー王ジギスムントが王位継承に名乗りを上げた。しかし、コンスタンツ公会議でヤン・フスを焚刑にしたジギスムントの不誠実(*3)に不信感を抱いていたボヘミアの貴族たちは、フス派の主張を認めることをジギスムントの王位継承の条件としたが、彼はこれを拒否した。その結果、ボヘミアでは宗教改革を求めるフス派勢力と、ローマ教皇に忠実な王権派との対立が決定的となった。

 両派の激しい争いによってプラハの市内は破壊され混乱したが、教皇マルティヌス5世が皇帝ジギスムントの要請に応えて、翌年の3月17日、ボヘミアのフス派殲滅の十字軍を起す勅書を発出した(*4)。そして、6月30日には十字軍がプラハに迫った。窮したプラハのフス派連合は、のちに「プラハの4箇条」と呼ばれる条件を出して十字軍との和睦を模索したが、皇帝ジギスムントはそれを拒否し、プラハの王宮を占領すると守備隊を残して引き揚げて行った。
 しかし、プラハ市民は彼らを兵糧攻めにした。救援に駆け付けた軍団もフス派の武力集団によって撃退され、やがて、ボヘミア全土が実質的にフス派の支配下に置かれた。そして、この年(1420年)の暮れに、ボヘミア議会はジギスムントのボヘミア王位継承を認めないと宣言し、先の「プラハの4箇条」受諾を条件に、ポーランド王ヴワディスワフ2世(即ちヨガイラ)をボヘミア王に招請した(*5)。

 翌年の1月、従兄弟同士のヨガイラとヴィタウタスは、2人揃って、リトアニアのヴァレナ(*6)でフス派の使節と会ったが、ポーランド王であるヨガイラは彼らの招請を断った。ところが、その年(1421年)の6月10日、フス派の人々は一方的にリトアニア大公ヴィタウタスをボヘミア王に選出した。そこで、ヴィタウタスは、彼らフス派がローマ教会と和解してボヘミアの分裂が解消すればという条件で、ボヘミア王位を受諾すると応じたが、その一方で、教皇マルティヌス5世には、異端者、即ち、フス派には協力しないと伝えた(*7)。

 この何とも言えぬ微妙な対応を見せたヴィタウタスは、その翌年(1422年)の春、自分の代理として、ヨガイラの甥ジギマンタス(*8)をボヘミアに派遣した。このとき、ヴィタウタスはジギマンタスに自分の軍隊を与えてボヘミアに向かわせた(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」の蛇足(1)で述べたように、ヤン・フスは1415年7月に処刑されたが、その焚刑は凄惨極まりないものであったという。そして、その翌年の5月にはヤン・フスの友人ジェロームも焚刑に処せられている。こうしたことに対する反発から1419年頃にはボヘミアでのフス派は大きな勢力になっていた。なお、1999年に、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世(この人はポーランド人で、クラクフのヨガイラ大学で神学を学んだ)はヤン・フスの処刑に対して「深い悔恨の念」を表明している。
(*2)ヴァーツラフ4世は、フス派が市長などを市庁舎の窓から投げ落としたことにショックをうけて気絶したのが原因で、その後、急死したのだとも言われている。なお、この人については「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(1)参照。
(*3)当初、ジギスムントはフス派の問題を平和的に解決しようとして、ヤン・フスに公会議の場で弁明する機会を与えることを提案した。プラハの人たちもこうした考えには賛同した。ところが、公会議では一転して異端尋問となり、フスの弁明など一切うけつけず、残忍な焚刑で処罰したため、プラハ市民は皇帝ジギスムントに裏切られたという怨念を抱くようになった。
(*4)寡婦となったヴァーツワフ4世の后ゾフィーが両派の争いの調停に尽力したが、フス派の中のヤン・ジズカ(Jan Žižka)という過激な人物がプラハを去ってボヘミア南部に拠点を築き、兵を集めて武力闘争を開始した。これが本格的な戦争を誘発した。
(*5)フス派の人々がヨガイラ(ポーランド王ヴワディスワフ2世)に目を付けたのは、おそらく、コンスタンツ公会議での論争などから、ポーランドやリトアニアの人たちなら自分たちの主張を理解してもらえると思ったからだろう。実際、ポーランドやリトアニアではフス派に共感する者が少なからずいたようだ。
(*6)ヴァレナ(Varėna)は現在のリトアニアの首都ヴィルニュスの南西約70kmに位置する古い町で、リトアニアが誇る芸術家(作曲家であり画家でもある)チュルリョーニスの生まれた町として知られている。
(*7)ヴィタウタスの立場はヨガイラより自由であったと思われるが、コンスタンツ公会議の閉会時に新教皇マルティヌス5世が、「ヨガイラとヴィタウタスは立派なキリスト教徒であり、彼らをルーシの地における教皇の総代理人に任命する」と宣言し、ヴィタウタスにジェマイチヤの人々を受洗させる権限を与えた。そして、1417年秋にはジェマイチヤ司教区が設立され、ジェマイチヤのメディニンカイに司教座が置かれ、初代司教としてトラカイのマティアス(Motiejus Trakiškis)が任命された。こうした一連の実績から、ヴィタウタスは教皇マルティヌス5世との関係を悪化させたくなかったはずで、ボヘミアのフス派との関係強化には慎重だったのだ。しかし、恐らく、ヴィタウタス大公はフス派に共感していただけでなく、ボヘミア王位にも魅力を感じていたのではなかろうか。教皇から戴冠を許された「王」を戴く王国に対して、公国は格下の準国家の扱いしかうけられない当時の西欧キリスト教世界では、「王」になることがどれほど重要かを彼はよく理解していたはずだ。そこで、ヴィタウタスはこのような曖昧な態度で両面作戦をとり、しかも、状況次第ではボヘミア王になる余地を残しておいたのだろう。
(*8)ジギマンタスは、ポーランド王ヨガイラの実弟でノヴゴロド・セヴェルスク公であったドミートリイ・コリブトと、リャザニ公オレグの娘アナスタシアとの間に生れた子である。コリブトはリトアニア語名カリブタスがロシア語化したものである。したがって、この人は「ジギマンタス・カリブタイティス」と呼ぶのが適当だが、「ジギスムント・コリブト」で通っているようだ。なお、この人はクラクフのヨガイラの宮廷で育てられたため、一時は、子宝に恵まれないヨガイラの後継者になるのではと噂された。
(*9)ヴィタウタスがジギマンタスに軍を与えてボヘミアに行かせたことが後に厄介な問題をひき起すことになる。
(2021年8月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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