2021年11月16日

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
posted by でんきけい at 00:00| Comment(0) | 武田レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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