2022年10月01日

リトアニア史余談:閉店のご挨拶/武田 充司

   今春、このブログを長年管理されてきた高橋さんが、もう90歳になったのだから引退しますと宣言されたので、僕も今年8月には90歳になりましたから、高橋さんの宣言に便乗して、「リトアニア史余談」も切りのよいところで終りとし、店じまいすることにしました。
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2022年04月16日

リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死/武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
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2022年02月16日

リトアニア史余談121:こじれる戴冠問題/武田 充司

 ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王になれば、従兄弟のポーランド王ヨガイラと協調して東欧に強大な連合勢力が誕生する可能性も考えられたが、それとは逆に、リトアニアがポーランドと同格の王国になることによって、両国の対立抗争が激化し、周辺諸国に漁夫の利をもたらす可能性もあった。
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2022年01月16日

リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田 充司

 活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。
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2022年01月01日

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
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2021年12月16日

リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田 充司

 1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。
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2021年11月16日

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
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2021年10月16日

リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。
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2021年09月16日

リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田 充司

 ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。
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2021年08月16日

リトアニア史余談115:フス戦争とヴィタウタス大公/武田 充司

 1419年7月30日、プラハの市庁舎前をフス派(*1)の一団がデモ行進していた。そのとき、市庁舎の窓から突然デモ隊めがけて石が投げ込まれた。これに激高したフス派の人々が市庁舎に乱入し、市長と数人の役人を捕えて市庁舎の窓から路上に投げ落とした。
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2021年07月16日

リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
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2021年06月16日

リトアニア史余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争/武田 充司

 ジェマイチヤの範囲を画定する問題がこじれて、ドイツ騎士団に先制攻撃を許したリトアニア大公ヴィタウタスとポーランド゙王ヨガイラは(*1)、その年(1413年)の10月、ポーランド南部のホロドウォで会談した。
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2021年05月16日

リトアニア史余談112:ジェマイチヤとはどこまでか/武田 充司

 領土の境界を画定するということは何時の時代でも厄介な問題だ。「トルンの講和」によってジェマイチヤを手放すことになったドイツ騎士団は、それでもしぶとく土俵際に残って、ポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスが存命の間だけリトアニア領として認めるという奇手を繰り出して問題を先送りした(*1)。
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2021年04月16日

リトアニア史余談111:トルンの講和/武田 充司

 1410年9月、マリエンブルク城の攻略(*1)をあきらめたポーランド・リトアニア連合軍が、占領した要所の城に守備隊を残して順次引き揚げて行くと、失地回復を目指すドイツ騎士団は撤退して行く敵を追って出撃した。
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2021年03月16日

リトアニア史余談110:「タンネンベルクの戦い」という記憶/武田 充司

 1410年の「ジャルギリスの戦い」(*1)という呼称はリトアニアの人たちの呼び方で、ポーランドの人たちは「グルンヴァルトの戦い」といい、ドイツや広く西欧諸国では「タンネンベルクの戦い」として知られているが、これらの呼称はこの戦場近くにあった2つの村の名のどちらかに由来している(*2)。
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2021年02月16日

リトアニア史余談109:マリエンブルクの攻防/武田 充司

 1410年7月17日、「ジャルギリスの戦い」に勝利して中1日の休養をとったポーランド・リトアニア連合軍は、野営地を発ってドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクに向って進撃を開始した(*1)。
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2021年01月16日

リトアニア史余談108:戦いのあと/武田 充司

 戦いが終り、制圧されたドイツ騎士団の本陣に足を踏み入れたポーランド王ヨガイラは、先ず、神に戦勝感謝の祈りを捧げた。そこには様々な物資を積んだ夥しい数の荷馬車が残されていたが、その中にはワインの樽を満載した荷馬車もあった(*1)。
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2021年01月01日

新年の挨拶/武田 充司

   子供の頃、正月といえば下町の狭い路地で、晴れ着姿の小さな娘を相手に、ほろ酔い機嫌の父親が羽根つきをしている光景などを目にすることもあった。
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2020年12月16日

リトアニア史余談107:ジャルギリスの戦い/武田 充司

 戦いはドイツ騎士団の陣営が放った2発の斉射によって始まった。1410年7月15日の午前9時頃であった。北緯54度に近い北国の夏の夜明けは早く、午前9時といえばもう真つ昼間で、早朝の不安定な天候もおさまり、強い夏の日差しが照りつけていた(*1)。
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2020年11月16日

リトアニア史余談106:1410年7月15日、決戦の朝/武田 充司

 雨と風の7月14日が暮れ、日付が変わった真夜中、リトアニア・ポーランド連合軍は行動を起した。雨と霧の暗闇の中を移動した彼らは、ドイツ騎士団が陣取っている場所の南東にある小さな湖の畔まで来ると足を止め、その湖の南西端に陣を張った(*1)。
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