2021年04月16日

リトアニア史余談111:トルンの講和/武田 充司

 1410年9月、マリエンブルク城の攻略(*1)をあきらめたポーランド・リトアニア連合軍が、占領した要所の城に守備隊を残して順次引き揚げて行くと、失地回復を目指すドイツ騎士団は撤退して行く敵を追って出撃した。
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2021年03月16日

リトアニア史余談110:「タンネンベルクの戦い」という記憶/武田 充司

 1410年の「ジャルギリスの戦い」(*1)という呼称はリトアニアの人たちの呼び方で、ポーランドの人たちは「グルンヴァルトの戦い」といい、ドイツや広く西欧諸国では「タンネンベルクの戦い」として知られているが、これらの呼称はこの戦場近くにあった2つの村の名のどちらかに由来している(*2)。
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2021年02月16日

リトアニア史余談109:マリエンブルクの攻防/武田 充司

 1410年7月17日、「ジャルギリスの戦い」に勝利して中1日の休養をとったポーランド・リトアニア連合軍は、野営地を発ってドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクに向って進撃を開始した(*1)。
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2021年01月16日

リトアニア史余談108:戦いのあと/武田 充司

 戦いが終り、制圧されたドイツ騎士団の本陣に足を踏み入れたポーランド王ヨガイラは、先ず、神に戦勝感謝の祈りを捧げた。そこには様々な物資を積んだ夥しい数の荷馬車が残されていたが、その中にはワインの樽を満載した荷馬車もあった(*1)。
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2021年01月01日

新年の挨拶/武田 充司

   子供の頃、正月といえば下町の狭い路地で、晴れ着姿の小さな娘を相手に、ほろ酔い機嫌の父親が羽根つきをしている光景などを目にすることもあった。
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2020年12月16日

リトアニア史余談107:ジャルギリスの戦い/武田 充司

 戦いはドイツ騎士団の陣営が放った2発の斉射によって始まった。1410年7月15日の午前9時頃であった。北緯54度に近い北国の夏の夜明けは早く、午前9時といえばもう真つ昼間で、早朝の不安定な天候もおさまり、強い夏の日差しが照りつけていた(*1)。
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2020年11月16日

リトアニア史余談106:1410年7月15日、決戦の朝/武田 充司

 雨と風の7月14日が暮れ、日付が変わった真夜中、リトアニア・ポーランド連合軍は行動を起した。雨と霧の暗闇の中を移動した彼らは、ドイツ騎士団が陣取っている場所の南東にある小さな湖の畔まで来ると足を止め、その湖の南西端に陣を張った(*1)。
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2020年10月16日

リトアニア史余談105:両軍の探り合いと駆け引き/武田 充司

 1410年7月初旬、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*1)を目指して北上するリトアニア・ポーランド連合軍の足取りは重かった。彼らは敵の罠にはまることを恐れて進路を慎重に探りながら進んだ。これに対してドイツ騎士団の動きは速かった。
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2020年09月16日

リトアニア史余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦 / 武田 充司

 プロシャのドイツ騎士団本部攻略を目指すヴィタウタスとヨガイラは、その意図を隠してドイツ騎士団の兵力を分散させるために、休戦協定が切れる6月24日(*1)を待たずに陽動作戦を開始した。
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2020年08月16日

リトアニア史余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”/武田 充司

 1410年春、ドイツ騎士団もリトアニアもポーランドも、それぞれ、本格的な戦いの準備に忙しかった。西欧キリスト教世界の支援を得て全面戦争を準備しているドイツ騎士団に対して、ポーランド・リトアニア連合も負けてはいなかった(*1)。
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2020年07月16日

リトアニア史余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団/武田 充司

 1410年1月、前年秋に結ばれた休戦協定に基づき、ボヘミアのプラハにおいてドイツ騎士団とポーランドとの和平交渉が始まったが、仲介役のボヘミア王ヴァーツラフ4世が示した調停案は一方的にドイツ騎士団の利益を擁護する不平等なものであった。
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2020年06月16日

リトアニア史余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い/武田 充司

 1409年5月、ドイツ騎士団の圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々がついに蜂起した。彼らは瞬く間にクリストメメル、フリーデブルク、そして、ドベシンブルクの城を襲って焼き払った(*1)。
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2020年05月16日

リトアニア史余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治/武田 充司

 1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれると(*1)、ドイツ騎士団はジェマイチヤの主要な河川に沿って点在する城の修理を進めると同時に、要所に新たな城を築いた(*2)。
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2020年04月16日

リトアニア史余談99:ウグラ川の協定/武田 充司 

 1406年、ノヴゴロドはヴィタウタスの軍事的圧力に屈して、ポーランド王ヨガイラの弟レングヴェニスを勤務公としてうけいれた(*1)。これはレングヴェニスにとって2度目のノヴゴロド勤務であった。
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2020年03月16日

リトアニア史余談98:ラツィオンシュの講和/武田 充司

 15世紀初頭のドイツ騎士団との戦いは武力衝突ばかりではなかった。互いに自陣営の聖職者や学者など、当時の知的エリートたちを総動員して、自分たちの行為の正当性を西欧キリスト教世界に訴え、理解と共感を得ようとする激しい政治的宣伝合戦でもあった。
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2020年02月16日

リトアニア史余談97:ジェマイチヤの反乱/武田 充司

 1401年3月、ドイツ騎士団の支配を嫌うジェマイチヤの人々が決起し、多くのドイツ人を人質にとってフリーデブルクの城を焼き払った(*1)。すでにジェマイチヤの長老や有力者の多くがドイツ騎士団によってプロシャに連れ去られていたから(*2)、彼らは人質にとったドイツ人と交換にその人たちを取り戻そうとした。
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2020年01月16日

リトアニア史余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ/武田 充司

 1399年2月、北方からリヴォニア騎士団が突然ジェマイチヤに侵攻してきた。驚いたジェマイチヤの人々が防戦に気を取られている隙に、ヴェルナー将軍率いるプロシャのドイツ騎士団軍が背後からジェマイチヤに襲いかかってきた。ジェマイチヤ全土はあっという間に両騎士団軍による略奪と破壊の惨禍に飲み込まれてしまった。
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2019年12月16日

リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田 充司

 ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。
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2019年11月16日

リトアニア史余談94:ヴォルスクラ川の戦い/武田 充司

 ウクライナの首都キエフの東南東300kmほどのところにポルタヴァという都市がある。そこは18世紀初頭の大北方戦争の行方を決した大会戦「ポルタヴァの戦い」があった場所として知られているが、それより310年前の1399年、ポルタヴァの北方郊外のヴォルスクラ河畔でリトアニア大公ヴィタウタス率いる遠征軍がキプチャク汗国の汗テミュール・クトルク率いるタタール軍と対峙した。
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2019年10月16日

リトアニア史余談93:クリミア遠征とサリーナス条約/武田 充司

 1398年夏、ヴィタウタス大公は前年に続いて再びドニエプル川下流の草原地帯に遠征した。このとき、ヴィタウタス率いるリトアニアの遠征軍はクリミア北部からさらに東へ進んでドン川下流域まで達した。そして、ドニエプル川の河口付近に城を築き、「聖ヨハネの城」と命名し、多くの捕虜をつれて意気揚々と引き揚げてきた(*1)。
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